創世記40章

 なぜヨセフは、ヤコブに愛されたのだろうか。聖書は年寄り子だからと書いているが、そればかりではあるまい。そもそもヤコブは、子どもの中でヨセフが一番自分に近い感覚を持っているように感じていたのではないだろうか。怒りに任せて剣を持ち出すレビやシメオンは明らかに自分とは異なった感覚に生きている子どもであったが、ヨセフは「夢を見る者」であった。ヤコブも夢によって神に人生を導かれてきている。神はヨセフと共にあると思うところがあったのだろう。だからヨセフを一層愛したと言える。
ともあれ、子どものうち誰よりも愛され、「箱入り娘」であるかのように育てられたヨセフが、「奴隷」とされていく。その生活変化はあまりにも大きく、ヨセフの失ったものは多かった。無一文でエジプトに引き連れられてきて、もはや自分の好きな人生を生きる自由は全くなかった。ただひたすら主人の意思に服従するだけの人生である。ことばを始め、食べ物、着る物、習慣や文化の違う社会に順応していかなくてはならなかった。もはや誰も父ヤコブのようにかわいがってくれる者はいない。大きな顔をさせてくれる者も、失敗を大目に見てくれる者もいない。兄を恨んでも、父ヤコブの助けに望みを託しても、無駄である。そんな中で、ヨセフもまた、父ヤコブに聞かされたであろうベテルの神を呼び求めるように導かれたのではあるまいか。かつてのヤコブがそうであったように、目に見えぬ神のみに、ただ望みを置く生活へと導かれていく。それは孤独で苦しみの時ではあったが、神に近づき、自分と共にあり、自分を愛し祝福する神を知り、喜ぶ貴重な時であった。
 事実神はヨセフを見捨てられなかった。監獄にあっても「主が彼とともにおられた」とあるように、神は、ヨセフを守り、その手の業を祝されたのである。
 だがそれにしても、奴隷から囚人へ、という転落に告ぐ転落の苦難は耐えがたいものがあったことだろう。しかも40章で注目されることは、ヨセフが監獄の中の管理者から(39:22)、仕える者に立場が変更されていることである(4節)。ヨセフの状況は悪くなる一方であった。小さな助けに一喜一憂し、主の救いはこの時か、あの時か、いつまで主の救いを待てばよいのか、と焦燥しつつ、半ば諦めの思いにもなっていたことであろう。
そんな折に、王の献酌官長と調理官長が罪を犯し、監獄に入れられてきた。献酌官は、王に酌をする官吏であり、王を陰謀から守る護衛である。侍従長は、ヨセフを彼らの付き人とした。侍従長は、まだポティファルで、事件の後も変わらずつながっていたようである。おそらく、ヨセフに対する信頼が幾分回復させられていたのであろう。ともあれ、監獄に入れられた二人は夢を見た。そして、彼らの夢はヨセフによって説き明かされた。「夢を解き明かすことは神のなさること」と神に栄光を帰すヨセフの信仰の姿勢が証しされる。
 またこの機会を、ヨセフは自分の救いの時と考えたようである。献酌官長にヨセフが訴えている(14節)。ヨセフの感情が強く感じられるところである。しかし、神の助けは私たちの思いのよらぬ時に展開してくる。神の時はまだ先であった。だからヨセフは、その一筋の期待を見事に裏切られてしまう。しかし、人が忘れようと、人に放り出されようと、神は忘れられることはない。神はご自身の計画を必ず成し遂げられる。自分の願うところではなく、ただ、はかりがたい神の深い御心に服従させられる時がある。それは、人間的なものを一切頼まず、ただ神のみに信頼することを学ぶ、貴重な時である。
ヘブルの著者は語った。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(10:36)またヤコブも語った。「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(1:4)神の救いが遅れると思うような時に、あるいは、自分には何も望みがないと思わされるような時にこそ、忍耐に忍耐を重ねてみよう。それは、確実に結果を生み出す、信仰の修練の時であるからだ。神の救いは思いも寄らぬ時、思いも寄らぬ所から生じてくるのである。

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