創世記39章

 38章のユダとこの章のヨセフの姿は対照的である。ヨセフは、やがてエジプトの大臣に抜擢されるのであるが、霊的な意味でイエスの系図に与ったのはユダである。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフではなく、ユダなのである。聖書が、ヨセフの生涯を取り上げるのは、イエスの系図を示すためではなく、別の意図による。つまり、ヨセフの生涯はヤコブの生涯に含まれ(37:2)、アブラハム(12:1-3)、イサク(26:4)、ヤコブ(28:14)と繰り返された、神の祝福の意味を、ヤコブの家族の一大エピソードを通して具体的なイメージで示すためなのだろう。
 奴隷として売り飛ばされたヨセフはポティファルという侍従長に拾われた。聖書は繰り返し「主がヨセフとともにおられた」と記し、それによってヨセフが「幸運な人」となったこと、あるいは、「主が彼のすることすべてを成功させて」くださったと語る。こんな不幸で何が幸運なのかとも思わされるところであるし、その後ヨセフはさらなる絶望的状況に追い込まれていく。
つまりポティファルの妻は、おおよそ、奇特な夫には似つかわしくない好色な女性で、彼女はヨセフを誘惑した(10節)。ヨセフは、それが主人を裏切るだけではない(8節)、神に罪を犯すことになる(9節)とはっきり理解し、これを拒絶した。主がヨセフとともにおられただけではない、ヨセフもまた主の御前にあることを覚え、主と共に生きていた。ヨセフの信仰者としての誠実な生き方を垣間見るところである。ヨセフは自分の弱さを理解し「そばに寝ることも、一緒にいることもしなかった」とある。執拗な求めは拒否しにくい。また拒否することで一層面倒に巻き込まれると思うこともあっただろう。しかし一度の妥協は全てをなし崩しにするもので、一度を守る大切さがある。神と共にあり、弱さを覚えればこそ、断固として誘惑を退け、その場から立ち去った。
だがそのように、神の前の真実に立とうとするヨセフの耳に響いたのは、天使の賞賛ではなく、逆恨みしたポティファルの妻の悲鳴であり、ポティファルの誤解と激しい怒りであった。ヨセフは釈明する機会も与えられず監獄に入れられてしまう。幸運な、すべてに成功していたヨセフは、奴隷よりもいっそう立場の悪い囚人へと転落していった。せっかく築き上げた新しい生活における信頼も、身分も一瞬にして奪われてしまった。しかも、彼は、穏やかに収容されていたわけではなく「鉄の足かせ」で囚われていたのである(詩篇105:18)。
にもかかわらず聖書は言う、「主は彼と共におられ、主が成功させてくださった」と。(23節)。本来であれば、事の成り行きが苦々しく思われるところであろう。あるいは、どんどん自分の立ち位置を狂わされていく状況に、父ヤコブの神に不信を抱きのろいたいとすら思うところではあるまいか。ヨセフに残された自由は、この最悪の境遇を無理やり受け入れるだけであった。ヨセフにとっては、不本意にねじ伏せられるような出来事の連続である。それでも主はヨセフとともにおられた、と聖書は語る。しかし、そうならば、もともと、このような人の憎しみによって人生を翻弄されるような状況に追い込まなくてもよいのに、と思わされるところだろう。しかし、神の計画は深い。ヨセフが囚人にならなければ、ヨセフが大臣になるきっかけとなった人物との出会いは決して起こりえなかったからである。ヨセフの新しい未来が開かれるためには、なくてはならない茨の道であった。それは十字架の道が、イエスの復活に不可欠であったのと同じである。
こうして私たちは、神がただ無駄な人生を人に歩ませることはないことを確信してよい。神は罪人をあわれみ、恵み、祝される神である。私たちは、神が引きずり回す道をことごとく踏み行き、時間をかけて、その意味を理解させられていく所がある。そうであればこそ、試練にあっても、慌てず、なすべきことを淡々となし、スマートに生き抜いていきたいものである。今日も私たちにとって主は最善をなしてくださる、と主にゆだね、主に信頼しつつ、歩ませていただくこととしよう。

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