ヨセフはベニヤミンの持ち物に、銀の杯を忍ばせるように命じた。その真意はわからないが、おそらく、弟ベニヤミンを側に置きたい気持ちがあったのだろう。推測するばかりではあるが、この出来事によって、ヨセフと兄弟たちの間に思わぬ結果が展開する。
この時兄弟たちはベニヤミンを見捨てて帰途に着くこともできた。しかし、彼らはそうはしなかった。ユダがベニヤミンを取り返すべく、ヨセフの前に嘆願し始めている。ユダは、ヨセフをエジプトに売った張本人である(37:26,27)。それが今や捨て身になって、ベニヤミンを取り戻そうとしている。時が、ユダを変えたのだろう。父ヤコブの悲しみを理解し、人の願いを思いやり、守る者と成長させたのだ。彼は約束を守ろうとした。
後にヤコブは、ユダを祝福して語った。「ユダは獅子の子。・・・王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない」(49:9,10)やがてダビデに受け継がれ、メシヤ待望へとつながる、ユダの王権が確立していく預言的なことばである。救済史のバトンは、長子のルベンでも、最愛の子ヨセフでもなく、最愛の子ヨセフをエジプトに売り飛ばし、その後に悔い改め、父のいのちを救おうとしたユダへと受け継がれていく。興味深いところである、ヨセフは一致のきっかけを作ったが、一致に努力したのはユダである。
感動的なユダの説得が記録される。感情を抑え、言葉を飾らず、率直に淡々と訴えている。ヨセフを殺そうと提案したのがシメオンだとすれば、実際にヨセフをエジプトの奴隷に売りつけたのはユダであった。ユダは四男、おそらく、次男のシメオンと三男のレビがヨセフを殺そうと皆をたきつけ、長男のルベンがそれを知って阻止しようとした。ところが、四男のユダの、殺すのではなく売り飛ばそうという提案が通っていく。そこでヨセフは売られてしまったのだが、その結果はどうであったか。彼らは、父親のあまりにも激しい嘆きに面食らってしまったのだろう。切り裂かれ、羊の血で汚した長服を差し出す行為があまりにも思慮のないことであるとは思いもよらなかったのだろう。その時から父親の何かが狂っていく、そんな姿を見て、兄弟たちは自分たちのしでかした過ちの大きさを、日々ひしひしと感じていったのではあるまいかと思う。
そして奴隷商人に売り飛ばしたユダが、殺そうと語ったシメオン以上に悪者になっていく。家族の歯車も大きく逆回転し、とめどもなく最悪の事態へと動いていったのではあるまいか。この事件の後ユダは、家族から離れて、一人で暮らしている。なぜか。ヨセフを思い、悲しみに沈んでいる父親、お前が奴隷に売れと言ったではないか、という兄弟たちの無言の抑圧、そんなことで居心地が悪くなって、家を出た、というのは考えられることである。つまりユダもこの10数年というもの、本当に心責められる人生を歩まされたのではないか。ユダの説得は、口先ではなくて、自らの反省から出てきたものである。人間的にも人の悲しみがわかって成長したところから出たものである。その姿を見て、ヨセフも何か、心のうちに張り詰めていたものが崩れていくものを感じたのだろう。
苦しみが意味をもたらすのはこんな時である。苦しみはそれ自体喜ばしいものではないし、生産性もなく、無為な時を過ごしているように思われるものだ。しかし、確実に魂を練り上げている。魂を形づくり、最終的に神の形を生み出そうとしている。その苦しみの意味が解き明かされ、苦しみの効果が表される瞬間がある。そういう意味では、無駄、無意味と思えるようなことも、厭わずに、淡々とこなしていくことも知恵である。良くても悪くても、今日も主の御心に沿った歩みがなせることを願いつつ、歩ませていただこう。