創世記45章

ヨセフは自分を制することができなかった。そして声をあげて泣いた。二度目の涙は、最初の涙とは意味が違う。43章30節での涙は、弟懐かしさの涙である。45章での涙は、感動と和解の涙である。自分をいたぶり、悪鬼のように商人に売り渡したユダの姿はなく、変えられたユダがいた。しかし、ヨセフは、変われずにいた。兄弟を赦し、家族と再会すべき時が来ていたが、ヨセフは弟ベニヤミンを側に置きたいというだけで、兄弟を赦せず、父の気持ちを思いやることもできずにいた。ヨセフには、あれほど自分をかわいがった父などどうでもよかったのかもしれない。というのも、あんな偏愛に満ちた父がいなければ、こんな不幸も味わうことはなかった、とヨセフは過去の記憶に生き続けていたのかもしれない。そんなヨセフの頑なな何かが崩れていく。
かつてヨセフは、二番目の息子をエフライムと名づけ、主がこの苦しみの地で、自分に多くの償いをしてくださった、と告白している。しかし、それは物質的な償いであって、心の傷を癒す償いではなかった。深い心の傷は長く放置されたままであった。有り余る富と地位で、自分の心の問題をごまかしてきただけであった。ある金持ちの求道者が語ってくれたことがある。金持ちにはごまかしが効くという。寂しい心、むなしい心を、金でごまかすことができる。それがたとえ一瞬であっても、偽り、ごまかすことができると。ヨセフもそうだったのだろう。
だからヨセフの本当の幸せは、この時から始まっていく。変えられた兄弟たちと和解し、かつての父親を受け入れていくところから、神が償ってくださった、自分は満たされた人生を歩んでいる、と心底言える人生が始まっていくのである。それまでの人生は、ただの見せかけの幸せであった。兄弟たちの真実に変えられた姿に触れて、ヨセフの頑なな心が砕かれ、奥深い傷が癒されて、初めて真の和解と幸せが実現したのである。
そしてこれが、神がアブラハムに約束された祝福と理解すべきことなのだろう。ヨセフの物語は絵画的に、アブラハムの祝福をイメージさせてくれる。新約聖書における放蕩息子(ルカ15:11-32)のたとえが神の愛を理解させるものであるとしたら、旧約聖書におけるヨセフの物語は、神の祝福を理解させるものである。分かり合えず、散らされ、敵対すらした者たちが和解し、一つにされる、それがヨセフの味わった祝福である。それは地上における、お金、名誉、地位がもたらすいかなる祝福にも勝るものである。
ヨセフはこの時、39歳になっていた。神は、この恵みをヨセフに、そして家族に理解させるために、多くの時間を費やされた。神は単純に物事を進められるお方ではない。私たちには無駄と思えるような時間をかけながら、物事がわかってくる時と場を備えてくださる。そして神は、起こりえないことを起こりうるように一切を導いてくださるお方である。この時点では、もはやヨセフだけが、自分の心に素直になればよいという状況であったのだろう。しかし、わかっていても、素直になれない時はあるものだ。そしてそのような時も、神が、その素直さを導いてくださるのである。素直になれない時には、自分の気持ちをそのまま神に告げて、時を待つべきなのだろう。それが自分を制しきれない形で実現するのか、それとも、スマートな形で実現するのかはわからないが、神が必ず時と場を備えてくださる。
ヨセフは自らを明かした。そして兄弟たちが自分にしたことを積極的にこう言い換えている「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、命を救うようにしてくださいました。」(5節、50:20)、信仰の人には、物事を神のご計画として理解する力がある。たとえそれが人意図した悪意的な行為であれ、そこにも神の完璧なご計画があると信じる力がある。ヨセフは兄弟の悪意によって売られたのではなく、神に遣わされたと考えた(8節)。また神の人は、神の業がなされる目的を理解する。ヨセフは、自分がエジプトの統治者になったのは、エジプトの民が救われるだけではなく、ヤコブの家族、つまりイスラエルの民も皆救われるためであったと考えた(7節)。実際のところ、ヤコブの家族は外国人としてエジプトの地に迎えられ、自分たちの独自性を失うことなく、増え広がることができた。これは、やがてイスラエルをエジプトの奴隷とすることに繋がるのであるが、イスラエルを国としていく、神のご計画でもあったのである。いついかなる時も、私たちには知りがたい、神の導きを信頼しつつ歩ませていただこう。

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