7章 奉献(各部族ごと)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。流れからすれば、一般信徒の献身(5章)、さらに優れたナジル人的献身(6章)、そしてアロンの祝福の後に続いて、主の恵みに応答して民を代表する族長たちのささげ物の記録(7章)、となります。そして主の恵みが自発的なものであること、神の働きを完成するものであること、心遣いのある愛に根差すものであること、非常に教会の奉仕のあり方、ささげ物のあり方について教えられるところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.自発的にささげる(7:1-3)
民数記の書き出しは、「エジプトの国を出て二年目の第二月の一日(1:1)であったが、7章は、「モーセは幕屋を建て終わった日に」とあり、どうやら時間的な順序は、この7章の方が1章よりも先になる。実際ここから9章までの出来事は、民数記1章に描かれた人口調査よりも前に起こったものである。著者はどうやら時間順に物事を書き進めてはいないようだ。どうしてこのような書き方をしたのだろう。それは、読者に、献げ物が神の恵みに対する応答であるという信仰的な考え方を理解させるためであったのだろう。だから7章の部族ごとになされた奉納物の記録、いわゆる奉納目録は、6章22-27節の祝祷に続いて書かれた、と言える。流れからすれば、一般信徒の献身(5章)、さらに優れたナジル人的献身(6章)、そしてアロンの祝福の後に続いて、主の恵みに応答して民を代表する族長たちのささげ物の記録、となるわけだ。事実各部族は、幕屋が建て上げられた後、ただちにささげることを実践した。しかし、そのささげ物は、命じられて行われたのではなく、神のこれから先の祝福を覚えて自発的にささげられたということである。
2.神の働きを完成させる(7:4-11)
また自発的にささげられる献げ物が、さらに、神の働きを完成するものとして用いられていくことを、私たちは知らなければならない。たとえば献げ物は、教会にささげられて終わりなのではない。それは神に仕える私たちの働きを強めるために還元されるのである。実際、彼らが持ってきた車6両と雄牛12頭は、神殿の宮に奉納されて終わりではなかった。むしろ、献げられたものは、彼らの奉仕の道具として差し戻されているのである。民数記4章で、幕屋の解体と移動についての指示があるが、それらの中で重いものはどのように運ぶべきかは記されていなかった。しかし、こここで、幕屋の幕の責任を担っていたゲルション族には、二両の牛車が、柱や幕の責任があるメラリ族には、四両の牛車が与えられたことがわかる。こうして彼らは自分たちのささげ物によって、自分たちの奉仕が進みやすい配慮を与えられ、さらにその奉仕を強化されているの。私たちがささげる物は、教会に吸収されるのでも、教会に受納されるのでもなく、教会の働きがさらに強化され、完成されるように、用いられていくのである。実際、神はどのような人間がいかなるものを差し出したとしても、それを必要としておられるわけではない。金銭的な価値の問題ではなく、ささげる人の一人一人の神に対する応答、すなわち愛を神は見ておられるのである。私たちがささげ物をして、教会という箱モノが建てあがって、何が大切なのか、というと、その場で、神への応答の愛が、証されていること、証される場が、地域に根差し、地域を神のものとしていくことである。教会は、まさに、神に対する愛の応答が、見られる場なのであり、神の不思議を確認する場なのである。
3.各部族ごとのささげ物(7:12-89)
12節以降、各部族のささげ物が記録される。彼らは12日間にわたり、全く同じものをささげた。それは、部族間の平等性を示すよりも、各部族が全く平等に、主の祭壇に責任があることを示そうとしている。つまり、私たちは、一人一人皆平等に神の祝福に与る者であるが、同時に、神に対する責任も皆平等なのである。私たちが皆等しく礼拝をささげることに責任があり、またその奉仕と、祭司の働きを支えることに責任がある。誰かがやってくれるだろうという意識は改革されなくてはならない。誰かに負担を負わせるというのではなくて、私自身も負担を追う、という心遣いのある教会は強い。
また書き方は、非常にマニュアル的、機械的なものであるが、実際には、そこに心が求められていることに注意しなければならない。ちょうどカインとアベルの物語がよい例であるように。神はアベルのささげものには目を留められたが、カインのささげものには目を留められなかった。神は、「正しく行った」かどうかを問題にされているが、後にヘブルの著者は、アベルのささげものが、信仰による、心のあるささげものであったことを記している(ヘブル11:4)。違うささげものであっても、神はささげる者の心をご覧になっている。また同じささげものであっても、神はささげる者の心をご覧になっている。正しく信仰をもってささげられるものは皆、神に覚えられる。そして神の栄光のために、心からささげものをするのであるならば、神はそのことに祝福もって報いてくださるのである。
大切なのは、神の奉仕に対する真の心遣いがあるかなのだろう。モーセが山で示されたとおりに造られた幕屋やその調度類は完全で、何一つ不足することはなかったと思われる。しかし金のひしゃくにしても、また、車と荷を運ぶ牛にしても、これからの奉仕に補充的なささげものが必要とされる余地はあった。そういう細かな事に対する自発的な気づき、心遣いは、神の奉仕を大事にする思いがあればこそ出てくるものだ。
そういう意味では、小さなことだが、教会に対する心遣いがあれば、教会の働きはもっと進むし、そのような教会は強い。教会を前進させるために必要なのは、新しいイベントでも、奇抜なアイデアでもなく、ただ、皆が奉仕しやすいように物事を整理することであったりする。あるいは、皆が使いやすいようにちゃんと使ったものを元に戻しておく、という当たり前の心遣いであったりする。教会を大事にし、教会に心遣いを持つ、そのような奉仕をさせていただこう。