民数記12章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日の箇所は、新約聖書のヘブル人の手紙3章にも引用されているものです。となれば、ただこの文脈だけではなく、ヘブル書に及んで、聖書全体の文脈から、語られているメッセージを理解することが大事になります。聖書通読が威力を発揮するのはこういう点です。聖書全体を繰り返し読み、本質的なメッセージを捉まえられるようになりたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.ミリヤムとアロンの反抗(12:1-3)
 イスラエルの民に蔓延したつぶやきは、ついに、指導者層である、ミリヤムとアロンにまで及んだ。モーセに対して、姉のミリヤムとアロンが、モーセの妻がクシュ人であったことで非難したという。これは単なる家庭内のいざこざではなかった。祭司と預言者が同盟し、神との仲介者であるモーセの地位に異議を申し立てたのである。イスラエルの民に対して祭司と預言者の職務があれば、モーセの地位は不要であると言わんばかりのことであった。
クシュ人はミデヤン人と同一視されることもあるが、普通エチオピアを指す。そこで、注解者によっては、二番目の妻のこととされることもある。しかしながら、モーセの妻の問題は口実に過ぎず、本当の問題は、モーセの霊的な権威に対するものであり、彼らは高慢によってさらに高い地位を求めたのである。神はモーセだけに語られるのか!ミリヤムとアロンは、主がモーセと話されるのと同じように、自分たちとも親しく語られると主張した。これに対して、モーセは、何の反論もしていない。聖書はモーセが謙遜であったからであると語る。「謙遜」と訳されたことばは、貧しい人や、弱い人を意味する。自分に助ける力がないので、神に助けを求める以外にない人の事を言う。また神に依存しきっている人の事を言う。そこに主が突然三人に語られたという。
2.主による弁護(12:4-10)
今朝注目させられるのは、この点であろうと思う。やはり、神を信じるということは、観念的なことではなく、実際的なことである。神が私たちの生活に介入されることを、確かに信じることである。だが、神を信じていても大抵は、窮地に立たせられると自分が何とかせねば、何の望みもないと考えてしまうのが私たちなのだ。しかし、神が愛する者を不本意な形で窮地に立たせることは大変な罪である。だから、弁護してくださる神に一切をお任せしていれば、それでいいのだ。目に見えぬ神が、確かに立ってくださる、動いてくださる、助けてくださると、静かに物事を受け止めて行けばよい。自分が弁解せずとも、神が弁解してくださる。自分が立とうとせずとも、神が立たせてくださる。神が守ってくださることを知らなくてはならない。
 ミリヤムとアロンの罪が宣告され、直ちに裁きが下っている。ミリヤムは、「ツァラアト」になった。
3.ミリヤムの回復(12:11-16)
神がモーセに与えられた霊的権威を侮辱したミリヤムに対する裁きは厳しいものであった。そしてアロンにはそのツァラアトを癒すことはできず、モーセがそれを癒すことができたのだから、モーセの霊的権威が確認されることになる。
ミリヤムは、ツァラアートの癒しの規定にそって、宿営の外に7日間締め出された。そしてイスラエルは、ミリヤムが戻ってから旅立つことになった。
4.ヘブル人の手紙の引用による示唆
初代教会は、この物語を、イエスのモーセに優る権威を語るものとして引用している。民数記のこの文脈の趣旨は、モーセが他の預言者と全く異なっていることを主張する。神は預言者には幻の中に現れたが、モーセには「口と口で語」られた、と。モーセほど神に近づくことが出来た人は他に誰もいなかった、と。だからヘブルの著者は、ミリヤムとアロンが挑戦したその地位に、イエスのみが立ちうることを語っている。イエスがここでモーセに異議を唱えたならば、モーセは退かざるを得なかった。イエスは、神と「口と口で語」ったモーセに優る存在なのである。
確かにモーセの役割は、約200万人とされるイスラエルの民を、エジプトから導き、約束の地カナンへと向かわせるために、神のしもべとして働くことであった。しかしイエスは、それ以上である 。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟」という海辺の砂のような、数えきれない神の民を罪の滅びの淵より導きだし、新しい都エルサレム、永遠の安息へと向かわせるために、仕えておられる。またモーセは、「家」 の一部であるが、イエスは「家を建てる者」である(ヘブル3:4、11:10) 。さらに、モーセはせいぜい一人の「しもべ」 に過ぎない者であるが、イエスは、「家を治める」立場にある。
今日この民数記から何を学ぶか、新約がこの部分を引用するのであれば、その意義をまず十分理解する必要があるだろう。この文脈それ自体は、キリスト者に何か不都合なことがおこり、神以外に助けがない者のようになっても、神にその守りを委ねるとよいことを教えている。しかし、聖書全体の文脈で読めば、ここに、私たちは、アロンとミリアムが挑戦したその地位に、イエスだけが立つことができる。イエスはまことの救い主であり、神の右の座に立つに相応しい方であることを、改めて教えられるのである。主イエスの権威を覚えて、主イエスに寄り頼んで歩む歩みを導かれていくこととしよう。

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