民数記11章

11章 肉を欲する(イスラエルに混じった者)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。私たちはいつも自分の目に見える可能性の中で生きています。だから物事が行き詰まりそうになればだめだと落胆し、つぶやきやすいものです。けれども、いつも、信仰によって、神の可能性の中に生きることを、私たちは学ばなくてはなりません。そして、神に期待し、神の恵みの中に生きる心を育てなくてはならないのです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
 10章後半からは、シナイからカデシュへの旅の記録になっており、14章までが一つの区切りとなる。それは、イスラエルの民が神に逆らう記録であり、指導者モーセの苦渋の記録であった。
1.タブエラ(11:1-3)
イスラエルの民は、荒野の旅に伴う困難、欠乏に不平不満をならした。本当は、約束の地カナンがもう目の前となり、勝利の約束があったのだから歓喜に満ちた歌声をあげるべきであった。そこで主の怒りが燃え、宿営の端が火によってなめ尽くされた。民は、これが神の裁きの火であることを直感し、モーセに助けを求めた。モーセのとりなしの祈りによって火は消え、その場所はタブエラと呼ばれた。「火が燃え上がった」という意味である。このような地名にしたのは、自分たちに対する戒めとするためであった。つぶやいても事態は決して楽にはならない。むしろ一層の困難を引き起こすだけである。
2.キブロテ・ハタアワ(11:4-35)
 次に4節、「彼らのうちに混じってきていた者が」激しい欲望にかられ、不平をならした。おそらく、イスラエル人と共にエジプトを脱出した外国人たちのことなのだろう。彼らは、マナの食事に飽き飽きし、激しい欲望にかられてつぶやいたのである。混じってきていた者の不平は、イスラエルの民全体に広まり、大声で泣き叫ぶという醜態をさらすことになる。これは、教訓的である。教会もしばしば、信仰のあり様は一様ではない。主を見上げる信仰の共同体である教会に、混じってきていた者たち、つまり、同じ信仰を共有し得ない人々も常にいるものである。だが、教会はそういう人々に影響されやすいものなのである。つぶやきが教会に蔓延し、教会の霊性が極度に貶められてしまうことがある。
彼らは言った。「ただで魚を食べていた」確かにそうかもしれない。しかし彼らは奴隷であった。魚よりも、自由を求めて泣き叫んだ時代があった。だが今や、自由よりも魚、肉が欲しいという。人間は勝手なものである。満ち足りることのない罪の現実、そうした罪の深みにある自分に気づかねばならない。
 モーセはこの事態に困惑した。モーセは負わされた責任の大きさを思ったことだろう。「なぜ、私はあなたの御好意をいただけないのでしょう」(11節)とモーセ自身も落胆している。「私が彼らを生んだのでしょうか」(12節)、「私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます」とモーセは神の召しに負担を感じている。牧会も負わされた任であるならば、同じような思い、落胆を感じさせられることはあるだろう。モーセの窮状に、神は、二つの答えを与えられた。一つは、共に重荷を担う70人の長老を起こされたことである。神は、モーセの霊を、その70人の長老に分け与えられた。そして民の重荷を共に負い、モーセがただ一人で負うことのないようにされた。さらに、神は、モーセに約束の言葉を与えられた。「主の手は短いのだろうか。」「今わかる」という。つまり見ていなさい。神のことばは必ず実現するから、という意味である。
 大切なことは、共に重荷を担う働き人が起こされることである。それがなかなか難しいと思われることはあるのだが、主がそのような働き人を立て、同じ霊を分け合ってくださることを信じる以外にはない。そして、神の言葉が実現するのを待つことである。既に述べたように、それが、「二日でも、一月でも、あるいは一年でも」(9:22)主のなさろうとしていることが現れてくるまで見て行くことである。いや、そんな流暢なことはしてられない、というのが、私たちの現実なのだが、たとえそうであっても、すべての救いは主にあることを覚えてそうすることである。
私たちはいつも目に見える可能性の中に生きている。だから行き詰まってしまえばもうだめだと考えてしまうし、行き詰まりそうな事態に直面すれば、神の助けなどありえないと早急に判断を下してしまいがちである。しかし神は言う。「今わかる」と。そして「主のほうから風が吹き」うずらが約2キュビトの高さ、つまり90センチの高さにまで至るほどの大きな御業がなされることを私たちは知るのである。私たちの人生に、タブエラをこれ以上つくってはならない。あるいは「キブロテ・ハタアワ」(「欲望の墓」の意味)だらけにしてはならないのである。むしろ、「今わかる」という神のことばをそのまま受け止め、神の誠実さに信頼し、確かに大いなる主の祝福をいただく歩みへと進ませていただこう。

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