民数記32章

32章 ガド・ルベンの土地相続,誓い

<要約>
皆さんおはようございます。新しい地に攻め入る直前のエピソード、ガド・ルベン族が、今ある地に残りたいと言い出します。モーセの非難を受けた彼らの修正提案は、今ある地に残る代わり、神の民の戦いを先頭を切って戦うというものでした。実に、私たちも人間の関り抜きに自分のことを考えやすいものです。しかし、教会あっての今の自分を考える時に、教会の戦いを先頭を切って戦う、そのような心構えも必要なのでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ガド・ルベンの申し出(32:1-15)
 いよいよ、イスラエルによるカナンの土地征服が始まる。しかしその最初に、ガド、ルベン族、そしてマナセ族の一部の者がヨルダン川を渡らずに、今あるこの土地に住み着きたいとモーセに願った。しかしこの土地はそもそも、先祖たちに約束された地の外側にあったものである。皆がヨルダン川を越えて、これから約束の地を手に入れようとしている時に、彼らは、神の約束を全く度外視した行動をとったわけだ。モーセはこのような申し出は災いである、と語る。それは、40年前カデシュで、約束の地を偵察しながら、入って行かなかったようにイスラエル人の意気をくじいた、彼らの先祖と同じ態度である。しかも、彼らがこの土地に住み着きたいというのは、すでに占領したこの土地が、自分たちの羊のために適していると考え始めたからである。カナンの地に出て行きたくないのは、あくまでも物質的な関心からであり、これから神が与えると約束する土地に、自分たちの祝福を期待せず、急いで自分たちの望んでいる土地を得ようとしていたのである。全軍指揮上の問題が生じていた。もし、すでに占領した土地を自分たちのものとすることを願い求め、それが許されるなら、これから苦労する仲間を傍観し、見捨てていく危険も出てくることだろう。
2.ガド・ルベン族の修正提案とその後(32:16-42)
彼らの態度に主の怒りが燃え上がったという。そこでガド、ルベン族は、自分たちが、これからヨルダン川西側の土地征服に対して、先頭を切って戦いに出、征服が終わった後に、東側の土地を自分たちのものにしたいと提案を修正した。モーセは、兄弟たちの土地征服の戦いのために攻撃の矢面に立って、先頭を行くのであれば、それはかなえられるとされる。実際の彼らの進軍の順序は、第二グループになるが彼らは思いきった提案をしたのである(2:16)。モーセは、約束を破らないように、と念には念を入れて確認している。そしてこの約束を破れば重い刑罰が課せられると、確認を三度繰り返した。その後の彼らはどうだったのか。ヨシュア記には彼らが約束を守り、主な敵が征服され、土地が他の部族に分配されるまで、先頭に立って戦ったことが記録されている。
 ガド、ルベン族が引き起こした問題は、私たちにも起こりうることである。というのも、私たちの罪深い性質は、いつでも目に見えない神の祝福よりも、今ここにある物質的な祝福に安寧しやすい。目に見える最善をよしとしてしまいやすい。信仰によって見えないものを臨み見る力に乏しい。そして、自分が神の民の一人であることを忘れ、兄弟姉妹のことを考えなければと思いつつ、自分の目先のことであくせくしてしまいやすい。まずは自分の思いや都合が優先され、家族、職場、教会のことは後回しとなりやすい。人間は、共同体の関りを抜きに存在し得ない、共同体に護られてこそ今がある、という単純な事実を忘れやすい。そういう意味でクリスチャンにとって、家族的な共同体である教会の存在は、かけがえのないものであるが、その重さを忘れやすい。それが私たちの愚かさであろう。
 ともあれ、私たちは天の霊的な都を、皆で一緒に目指す巡礼者でありながら、実際には、この世にあるためにこの世的な関心の中に、この世の人々同じ自己中心な者となって、巡礼の歩みにあることすら忘れてしまいやすい。だからどこかでガドやルベン族が意を決して、先頭に立ったように、巡礼の旅を進めるには、自ら巡礼の旅の先に立つ覚悟を持つことが必要なのではないか。最も罪深く、最も世俗的な私こそが、巡礼者の先に立つという覚悟を持つことである。神は、私の願いはよくご存じである、という信頼のもとで、まず、信仰者として先に立っていくのである。
 ガド、ルベン族のこうした態度が、イスラエルにまたガド、ルベン族自身にも大いなる祝福をもたらしたことは確かである。クリスチャンたちの先頭に立って信仰の歩みをする、そんな志を持たせていただこう。

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