詩篇21篇

21篇 喜びの日に王のために祈る
<要約>
おはようございます。教会は祈りの家、それはとりなしの場であるということです。そのような意味で、教会は祈祷会が盛んにならなければならないところだと思います。教会が祈りに満たされる時に、神の業が起こるというべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
先にダビデは、苦難の日に、「主の名」を呼び求めた。「あなたの心の望みを主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を遂げさせてくださいますように」(20:4)、と。そして、主は、その祈りに応え確かに威力を現され、素晴らしい祝福をもたらされた。その「喜びの日」に、ダビデは再び祈っている「あなたは彼の心の望みをかなえ、唇の願いを、退けられません」(21:2)。つまり詩篇20篇とこの21篇は、願いと答えという対になっている。前者が戦いの前に、王のためにとりなす祈りであるとすれば、これは戦いの後に王の祝福に対する感謝をささげる祈りである。とりなしの祈りととりなしの感謝の祈り、これは、神が私たちに応えてくださった時に倣うべき祈りである。
歴史的な背景として、アンモン人の地を攻め取った時の出来事が背景にあると考えられている(1歴代誌20:2)。ダビデの頭には、金一タラントの重さがあり、宝石がはめ込まれたアンモン人の王の冠が置かれた。それは王の権威の再確認を意味した(3節)。しかし、大切なのは、勝利をもたらした王ではなく、王に勝利を導いた神が心から讃えられていることである。そしてアンモン人の王への勝利は、バテシェバの事件の後のことであったとすれば、それは、実に神の恵み深さ、神の約束に対する忠実さを物語っている。実に、偉大なのは、人ではなく神である。
2.メシヤ詩篇として読む
そしてさらに、この詩篇は、ダビデの経験にとどまらない、先の詩篇同様にメシヤの経験を語っている、とされる。つまり、十字架において勝利し、尊厳と威光を得られたキリストについて語っている。実際、パウロは語っている。「キリストは、…自分を空しくして、しもべの姿をとり、…それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2:6-11)またヨハネもこう語る。「彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉と栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)苦難において呼び求めたキリストに、主が応え、主は永遠の栄光をキリストに与えられたのである。
確かに9節「あなたの現れのとき、あなたは彼らを燃える炉のようにされます。主は御怒りによって彼らをのみ尽くし、火は彼らを食い尽くします」、10節、神が「地の上から彼らの裔を人の子らの中からの子孫をあなたは滅ぼしてしまわれます」というのは、「主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります」(2テサロニケ1:9)という終末の出来事を彷彿とさせる。キリストの出現、それに伴う火と裁きがテーマとなっている。
3.勝利の祈り
ともあれ、この詩篇は、すべてキリストの道を進む者の、勝利の祈りでもある。イエスは、復活の後、エマオの途上の弟子に現れて二人に新しい啓示を与えられた。二人はイエスの十字架は失敗であり挫折であると思っていた。これですべてが終わったと考えていた。しかし、そうではなかった。十字架の苦しみはあらかじめ聖書に語られていたからである。イエスには、十字架によって全人類の罪の赦しを達成する大きな使命があった。そしてその苦難を忍んで使命を果たし、復活し、神の栄光の御座に再び戻られたのである。それは型である。私たちも同様に、十字架の苦難の道を通ってのみ、イエスと同じ栄光に与ることができる。
だからこそ、まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがない(7節)。たとえ人が、悪を企て、たくらみを設けたとしても、心配するに及ばない。その人は自ら滅びるであろう。神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対しえようか。たとえ苦難に落とされようとも、私たちは勝利を得る。私たちは歌い、主の威力をほめ歌うようになる(13節)。そうであればこそ、いくさ車でも、馬でもなく、主をこそ誇り、主に信頼して歩ませていただこう。13節は、20:9に対応している。

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