詩篇18篇

18篇 メシヤの勝利

<要約>

おはようございます。背景がはっきりとしている詩篇です。ダビデがサウル王の執拗な殺意から救い出され、統一王国の王となった時に、自分がいかに神のあわれみと恵みによって、死から命へと導かれたかを思い起こしながら詠んだ歌です。まさに、天変地異にも等しい、神の介入がダビデの人生を変えた、そこに私たちの希望もあると言えるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

2サムエル22章にも、同じ歌が収録されている。表題に「主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った」とされる。サウル王の抑圧から解放され、統一王国の王となったダビデが、過去を振り返り、現在の幸いが、神の恵みによってもたらされたことを確認している詩である。

確かにこの詩篇は、伝統的にダビデのものとされてきた。実際29節、徒歩によって戦うのは、ダビデまでとされ、それ以降、つまりソロモン時代以降は、戦車によって王は戦ったからである。しかし、この詩篇をパウロ、そしてヘブルの著者も、メシヤ預言の一つとして解釈して、引用している(ローマ15:9、ヘブル2:13)。つまりこの詩篇は、ダビデの作でありながら、キリストの勝利にこそ、最もよくあてはまるものなのである。そのような観点も含めて早速読んでみよう。

2.ダビデの感謝

まず1-3節は、導入的な賛美である。ダビデは神が、強固な砦、守り、救い、力となったと率直に讃えている。これほど素直に歓喜にあふれ、神の威力を評価し、神を近く覚え、心から讃えられるのは、苦難にあってまことに神を信頼し続けた結果である。信仰の成果は、日々の積み重ねで、連続的なものであり、思いついた時に効果をもたらすものではない。まさに「継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです」というべきものだろう。

サウルに追跡された数年間、ダビデは確かに神に守られ続けた。ダビデを守ったのはヨナタンでも、あの部下この部下でもない。まさに目に見えない神が堅固に守られたがゆえに、ダビデはここまで生きながらえた。悩みの中で彼が神に呼ばわった時に、神は、確かにその力強い御手を指し伸ばして救い出してくださった(1-19節)。ダビデは、神が自分に代わって戦ってくださったことを深く確信して詠いあげている。確かに、敵はダビデよりも強かったが、神は、敵の圧倒的な強さを無にしてくださったのである(17節)。

3.ダビデの告白

続くダビデの義の告白は(20-29節)、実はパウロが解釈するようにキリストにおいてこそ、相応しい告白である。「きよい者にはきよく、曲がった者には、ねじ曲げる方」(26節)確かに神は、神の言葉を守り、誠実な歩みをする者に報いてくださる。ダビデは、神に対して悪を行わず、主のおきてに従った、という。だから、神の加護を受けるためには、私たち自らが正しくあらねばならない、となりがちである。だが、何人も神の前に完全に生きることはできない。ダビデがここまで引き上げられたのは、ただ神の恵みによる。このように完全に言い切ることができるのは、キリストのみである。だからメシヤ詩篇として読むことが、最もふさわしいということにもなる。そして私たちにおいては、キリストにあって罪を告白し、赦しを得る、キリストの義に寄りすがり、神の哀れみの豊かさをたたえるところにこそ、私たちの義がある、と言えるだろう。主の道を守るというのは、まさに、その悔い改めに基づく神の義の追及にある。

4.神による勝利

30節以降後半、ダビデは、神による勝利を繰り返し語る。この神こそ、私たちの助けであると同時に、私たちを養育的に成長させてくださるお方である(30-36節)。神は私たちを助け出し、支え、生かし、品性を形作ってくださるお方である。神は私たちを鍛え、戦い方を教え(34節)てくださる。しかし、神はそれによって誇らない。まさに神の謙遜さによって、私たちは大きくされる。

だが、ここで読み解くべきことは、実に、ダビデにとって神の助けがいかに大きなものであったか、ということだろう。神が小さき塵に等しいダビデに示してくださった、その大きなあわれみに、ダビデは震える思いでこれを詠んだということである。ダビデにとっては全く閉ざされた人生、全く終わってしまった人生であったはずが、神は、天変地異を起こすがごとく、ゴミための中からダビデの声を耳に入れ、救いだし、ダビデに栄誉を着せてくださったのである。サムエル記のダビデの生涯をもう一度読み返してみたいところである。その貧しき者に対する神の大いなる業を信じるのでなければ、私たちにどのような希望があるだろうか。

37-45節における動詞は、ほとんどがヘブル語においては未来あるいは継続を意味している。つまり、ダビデは未来を展望して語っている。すでに与えられた勝利が、更に大いなることを約束している、と理解される。実際ダビデのその後は、近隣諸国を平定し、イスラエルを偉大な国としていくのであるが、それは、まさに神の業なのである。神は、死者の神ではない。生ける神であり、常に私たちに寄り添い、私たちの未来を導かれるお方である(46節)。だから絶えず、私たちは神によきことを期待してよい。だが、その確信的な内容は、パウロがエペソ人への手紙で語るように、キリストの奥義の実現である(エペソ3:6)。49節、パウロは、キリストがユダヤ人のためにだけではなく異邦人のためにも来られたことを示す、四つの預言の第一のものとして引用した(ローマ15:9)。50節「油注がれた者は」まさにキリストであり、終末的なビジョンを持ってこそ、この詩を心から歌うことができる。

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