イザヤ書63章

イザヤ書63章 主のたぎる思い
 おはようございます。61章、62章は、私たちに希望を与える素晴らしい主の励ましのことばでした。しかし63章は一転して、私たちの現実を語ります。そして、主の励ましが私たちのものとなるようにとりなす預言者の祈りが心を打つ一章です。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.だれもいない
 エドムは、死海の南に位置する。ボツラは、その主要都市であり、エドムの王ヨバブの出身地である。もともとヤコブの兄エサウに起源を発したが、イスラエルには友好的ではなかった民族で、神の都シオンに敵対する勢力の象徴とされた。
1-6節は劇詩形式で描かれている。つまり、聖歌隊が舞台の一角から「エドムから来るこの方、ボツラから深紅の衣を着て来るこの方は誰か(1節)」と呼びかけると、舞台の中央に、深紅の衣を着た主ご自身が現れて、「私は救いをもたらす大いなる者」と歌う。そして聖歌隊が「なぜ、あなたの装いは赤いのか」と尋ねると、主が「わたしひとりでぶどう踏みをし」、「私の装いをすっかり汚してしまった(3節)」と答えている。つまり、神は敵対する暴虐のエドムと戦い、これを裁かれたと言う。これはイザヤ書34章の再述であるが、単純にエドムに対する裁きを語るのではない。その趣旨は、敵対者に、裁きを執行したものの、だれも神を助けて正義の戦いを共にする者はなかった(5節)、イスラエルですら、神と行動を共にせず、神がただ一人、血だらけになって奮戦したと激白するところである。エドムであれイスラエルであれ、神の義に立たない者は皆神の敵とされている。こうしてこの箇所は、最後の審判者イエスの姿を思い浮かべさせられることになる(黙示録5:4、19:13)。
2.預言者のとりなし
第二幕、聖歌隊と主役の主が退くと、神のあわれみを請い、とりなしの祈りをする預言者が登場する。だから人称代名詞は、7節から「わたし」が「私」となるわけだ。
まず預言者は、神がイスラエルに与えられた過去の大いなる恵みを回顧し感謝する。イスラエルの子らは、今こそ責められてはいるが、まことに神の子である。神ご自身がそうおっしゃったではないか、と(8節)。彼らが苦しめば神も苦しみ、ずっと昔から共にいてくださったではないか、と(9節)。裏切ったのはイスラエルの方であり、弁解の余地もない。何ともバツの悪い思いにありながら、それでも、窮地にあっては、まことの神の子として、かつてのモーセの日々を思い起こし、あわれみ深い父のあわれみにすがる他はない(11-14節)。「私へのたぎる思いとあわれみをあなたは抑えておられるのですか(15節)」。預言者は、神の懐に飛び込んで、自らの窮状を訴える。預言者に、神の愛と熱心を疑う心はない。そして物事の解決は、神が自ら行動を起こす以外にはないとわかっているのである。だから神に見捨てられたようなイスラエルに代わってとりなし「どうかお帰りください(17節)」と絶叫している。今の日本に必要なのは、このような祈りなのだろう。「たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ」と叫び、同胞の癒しと回復のために、愛の神の懐に飛び込み、とりなす祈りである。