イザヤ書64章

64章 奮い立って主にすがる
 おはようございます。63章に続く、預言者イザヤのとりなしの祈りです。ただひとりでぶどう踏みをした神に対比し、ただひとりでとりなすイザヤの姿が印象的です。ぼんやり物事を考えてしまいかねないCOVID-19禍にあって、大事にすべきことが見えてくるように。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.驚天動地の事態が起こらんことを
63章7節から続く預言者の祈りとなる。既に見たように、預言者は、「わたしの側に立つ者はだれもいない」(63章)と語る神に共感して、人間のはなはだしい罪深さに心を留めている。「私たちはみな、汚れた者」「義はみな、不潔な衣」「枯れた木の葉(6節)」と語るように、預言者は、人間の現実を厳しく見ている。そのような預言者を極端に思い、受け入れがたく感じる人も多いことだろう。誰も彼もが悪いわけではないだろう、と。しかし、神の義は人が考える程度のものではない。かつてペテロは変貌山でイエスの聖さを目撃し、それは「この世の職人にはとてもなし得ないほどの白さ(マルコ9:3)」であると伝えたが、もし神の義、神の聖を目撃することがあれば、人は自分の何であるかに恐れ震え、沈黙せざるを得ないことだろう(イザヤ6:5)。だが人間の感覚は余りにも鈍麻し、現実にはそのようにはならない。だから罪深き人間が救われるとしたら、神が「天を割いて降りて来られ」「山々が揺れ動く」、想像を絶するような、見たことも聞いたこともないことが起こらない限り、到底不可能と言うべきである。使徒パウロは、この4節をコリント人への手紙の中に引用し、十字架の出来事がそうであった、と語る(1コリント2:9、10)。確かに、人の罪に赦しのためにいのちをささげたイエスの十字架は、たましいを心底揺さぶる驚天動地の出来事であった。だが預言者はまだその十字架を知らない。
2.どうか、主よ
だから9節以降の、預言者の神に対するとりなしは叫びに近い。サマリヤの陥落という歴史的な事件を目の当たりにし、残されたユダに対する神の裁きを確信せざるを得ない状況にあって、預言者は祈らざるを得ないのである。実際後にバビロン捕囚を経験した読者は、その惨状にあって、「主よどうか激しく怒らないでください」と祈らざるを得なかっただろう。そのように祈る何の権利もなく、討ち滅ぼされて当然で、静かに身を引くべき立場にあろうとも、いじましくも、人間は命ある限り回復を願わざるをえないのである。神が愛であるとすれば、やはりあつかましくもそこに希望をつなぐのである。そこで、回復を求めて、代弁する、それが預言者の祈りであった。ただ一人「ぶどう踏みをした」神の姿に(63:3)、ただ一人とりなす預言者の姿が浮かび上がってくるところだ。
ウィーンでグラーベンのペスト記念碑を見た時に、このようなものはもう昔話かと思ったが、愛の神の懐に飛び込んで訴える祈りが、再び求められている時代である。というのもCOVID-19禍が見せてくれたのは、まさに、病の怖さよりも、その病にあって立ち振る舞う人間の罪深さではなかったか。しかしその罪深き人間を見捨てることのない深き神の愛に訴えて回復を祈る使命がある。イザヤはその列に加わるように招いている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です