イザヤ書65章

65章 楽しみ喜べ
 おはようございます。人は過去の記憶の中に生きている者です。しかし、未来の展望の中に生きている者の生き方はまた違います。主の御国の素晴らしさを思い、そこに向かっている者として歩ませていただきましょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の答え
 先の預言者の祈りに(63-64章)、神が応答している。本来は、イスラエルの民にこそ、与えられる祝福であったのに、彼らは、神に従わず、偶像礼拝に陥り(3節)、異国の異教的習慣に染まり(4節)、律法を守らず、その心は神から遠く離れていた。神はそのようなイスラエルに対して厳しい裁きを告げられる(6、7節)。しかしそれは神の本意ではない。
神は愛であるから、主の名を呼び求める者には、あわれみ深い。いつでも答えてくださる。たとえ、神を尋ね求めず、頑なに、良くない道を歩む者であっても、神は「わたしはここにいるから」と待ち構えている、と言う(65節)。預言者が、期待したとおりの神である(64:4)。
大切なのは、人の神に向かう心である。人が、この神の祝福を受けようとするか否かなのである。ただ、それは、必ずしも、信仰者として模範的な生き方をしているかどうかを意味しているわけではない。むしろ、神の哀れみに寄りすがって、主に従って生きているかどうかである(13、14節)。
2.他の名の祝福
だから、他人がどうであれ、主の前に真実に生きる小さき者があれば、神に見過ごされることはない。腐れたぶどうの房の中に、一粒の甘い実があるなら、それは損なわれないと言う(8節)。彼らは、神の約束の地を相続するのである(10節)。実に真実な者に対する神の細やかな目がある。「ガド」は言ってみれば福の神、「メニ」は運の神として拝まれた偶像である。これら偶像の神を拝み続けるのではなく、まことの神のみを拝すべきことが勧められる。偶像に執着する者にはのろいを、これと決別し、神に立ち返る者には「ほかの名」を、つまり、もはやこれまで貼られた不名誉なレッテルはすべて取り去られる、というのだろう。
3.新天新地の祝福
 さらに神は答える「先ことは思い出されず、心に上ることはない。」(17節)。人はいつまでも過去の記憶に生き、落胆しているものだ。「曲がったものは真っ直ぐにできない」というが、まさに、曲がりきって、よれてしまった人生に何の希望を抱くことができるだろうか、と考えている。しかし神は言う。「わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。」神は創造の神である。神に不可能はない。期待は棄ててはいけない。しかしより大切なのは、人が味わうべき祝福は、何かを所有することよりも、何かを共有することにあることだ。もうすぐ、悲しみも叫び声もない、御国の約束が訪れる時が近づいている。以心伝心というがごとく、神と人の心が、打つ前に響くごとく通い合う時が近づいている(24節)。25節は、11:6-9の引用であり、御国の祝福を語る。もはや、争いもなく、平和で静かな時を永遠に共有する、そこに向かっている者として、この社会の喧騒を超えて生きたいところだろう。

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