59篇 ゴリヤテに立ち向かうがごとく
<要約>
おはようございます。この詩は、ダビデが、サウルの兵に囲まれ命を狙われ、危機一髪で逃れた時を詠んだものです。彼は、夜通し緊張し、落ち着きのない時を過ごしていたのでしょう。しかし、神を信頼する心には、神の守りと助けへの確信が広がっています。状況は不利でありながらも心の平安の中にあるダビデの詩に教えられてまいりましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
逃亡中の歌が続く。背景的には、1サムエル記19章、サウルに命を狙われ、サウルの兵がダビデの家を包囲した時のこととである。その夜ダビデは、家の窓からこっそり逃げなければならなかった。「血を流す」は「血に飢え渇く」を意味する。つまり、ダビデは、彼を抹殺することに使命と喜びを感じていた者たちに取り囲まれていた。手加減もなく容赦なしに、追い詰めてくる敵。そのような状況で、一体誰が、自分の命が守られることへの望みを抱けるであろうか。
あらゆる策略、人脈が総動員されて、生命線が脅かされていく恐怖。最も親しい者までもが手のひらを返し、敵対者の厚い壁に閉じ込められていく絶望的状況。もはや、自ら命を絶つ他はない、と望みを捨てざるをえない状況。しかし、ダビデはそこで繰り返し「目を覚まして」と神に呼び掛けている。不当な取り扱いを受け、望み得ない時であればこそ、主に助けを求め続けることが最善だからである。
2.この詩篇の公的性格
5節、ダビデがゴリヤテに向かった時の信仰がそのまま語られている(1サムエル17:45-46)。しかし、「すべての国を」とある。ダビデは、サウルのためになぜ「全ての国を」と敵対者の範囲を拡大するのか?この点については、後にこの詩篇が国家的存亡の危機にあって、公の礼拝に用いられた際に、書き加えられた部分であると考える者もいる。なるほど、確かに、詩篇は礼拝に用いられてきた。個人的な詩であると同時に、公の礼拝のための交読詩として用いられてきている。そのような観点から読み直してみれば、敵国に囲まれる国家的な危機において、神に祈りを献げることが第一原則であり、最善の策であることを、共通意識とするに役立った詩とも言えるだろう。礼拝は、神を認め、神を仰ぎ、神に栄光を帰すことに他ならないが、礼拝に集う皆がそのような意識を持っているわけではない。信仰の成熟度は、人それぞれである。また聖書に向かう態度も人それぞれである。しかし、礼拝に集うことを繰り返し、神のことばを共に真摯に交読することで、大切な共通意識、共通の信仰へと高められていくことが起こる。
3.祈り
ダビデは、祈った。そして待った。「私は、あなたを見続けます。神が私の砦だからです。私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる(9,10節)。大切な点である。危機的な苦難にあって、なおも静かに神の救いを待ち望んでいく。それは信仰あればこそだろう。信仰がなければ神を待つことなど出来ない。信仰のない人は、ただ騒ぎ立て、人を自分の苦悩に巻き込み、混乱を引き起こす。自分の不安を自分で抱えていられないのだ。神が必ず人のはかりごとを空しくしてくださる、と信頼できないからである。しかし信仰のある人は、確信する「神は、私に敵を平然と眺めるようにしてくださる」(10節)。そしてさらに11節「彼らを殺してしまわないでください。私の民が忘れることのないように。御力によって彼らをさまよわせてください。」余裕である。神がとどめを刺さないように、むしろ、同じ信仰の高さに生きる者たちにはよくわかる、教訓となるように、彼ら自身苦しめる者から苦しめられる者となるように、ということである。しかし、そのような悪しき者が、いつまでも世にのさばることのないように。それは万民共通する思いだろう。13節はダビデの信仰を彷彿とさせる。ダビデが、投石器を手にゴリヤテに立ち向かった信仰がそのまま表されている(1サムエル17:46b)。大切なのは、正義を貫かれる神が信仰者たちと共にあることが明らかにされることである。そこに、確かな信仰者の姿勢がある。
4.光の中で賛美する
14-15節と、16-17節は、悪しき者たちと、神に信頼する者の姿が対比される。悪しき者たちは、夜通し町をうろつき、餌を漁る犬のごとし、他方、神に信頼する者は、朝毎に光の中で神を賛美する。無知蒙昧の中にうろつく獣の姿と、光と恵みの中で、神を賛美する人間の姿が対比的である。「まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います」(16節)。ダビデは夜通し苦悶し、眠られぬ夜を過ごしたのかもしれない。この歌は夕べの恐怖を語っている。しかし夜通し祈り、神に思いを向ける中で、ダビデは、神を待ち、その救いに期待することが最善であると思い至ったのであろう。そして、神の勝利を思い、先取りの賛美へと導かれているのだ。信仰者の心にはいつでも賛美があり喜びがあるというのは、こういうことである。彼は迷わない者ではない。ある時は、獣のようにうろつくような状況に堕とされることもあるだろう。しかしそれで終わることはない。神の最善に期待できるからこそ、神の懐に抱かれる安心感を持ち、神に賛美をささげる心の変化が起こる。夕暮れには涙が宿っても、神に心を向けている内に、その心の中には真の朝明けがやってくる。神に深い信頼が寄せられる時に、平安と喜びが心に満ちてくるのである。