18章 バアルとエリヤの対決
<要約>
おはようございます。バアルとエリヤの対決は、前後の文脈の中で、神のことばを軽んじ、神に背を向けていくイスラエルの歴史において、明確に神の存在を認めさせ、神の元に立ち返らせようとした出来事として理解されるべきものでしょう。神は確かに生きておられるのであり、私たちは、どこにあってもこのまことの神を畏れて歩むべきなのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.イスラエルの飢饉、神の言葉の実現
イスラエルの王も民も、雨を降らせる神バアルを拝んでいた。実際、バアルを拝むことが、雨を降らせ、作物を実らせるように思われる時が続いていたのであろう。しかし、バアルではない天地を支配するまことの神がおられる、その神が雨を降らせない、と語るエリヤのことばは現実のものとなった。二年、三年と雨が降らない事態が生じた。大地は干からびて、人々の生活に支障が出始めた。生活だけではない、当時は、馬やロバが軍事力の中心であったが、そのような馬やロバに食べさせる草がない、飲ませる水がない。つまり戦乱の時代にあって、軍事力が弱体化していく国家存亡の危機が生じていく。実際、この時、北ではシャルマネセル三世がアッシリアを拡大膨張させ、シリア地方に侵略を繰り返し、イスラエルは、ダマスコやハマテ、他12か国との同盟軍に参加するため、2000輌の戦車を常備しなくてはならない事態にあった。こうして王は、自ら危機感を感じ、牧草地を見つけに出かけていくのである。
アハブは、イスラエルの地を巡り歩いた。そして旱魃の深刻な状況を目の当たりにすることになったが、それでもアハブは神のことばを認められずにいた。先の未亡人は神のことばの成就に、神が生きておられることを認めた(24節)。しかしアハブは違う。不思議なことであるが、これもまた人間の現実なのだろう。どこまでも悟ることができず、神を認められない、頑なな罪人の現実がある。
他方アハブの家臣にオバデヤという人がいた。オバデヤは主を恐れ、主の預言者たちを残虐なイゼベルの手から救いだし、匿っていた。エリヤは、このオバデヤを通じて、アハブとの会見を申し出る。アハブはエリヤを見るやいなや、誤解と憎しみのことばを発する。神を認められないアハブは、エリヤを攻撃している。神を認められない人は、いつでも同じことをしている。目の前の人を攻撃すること以外に考えが及ばないのである。
2.カルメル山の対決
そこで、エリヤはアハブの目を覚まさせるため大がかりなイベントを提案した。カルメル山頂でバアルの預言者と対決することである。またエリヤは、同じように神の存在を認められないでいる民にも、態度をはっきりするように警告した(21節)。こうして、信頼すべき神がどなたであるかを明らかにする対決が始まった。
この戦いでエリヤはことごとく不利な状況を設定する。エリヤは、カルメル山、つまり、イスラエルの神ではなく、カナンの異教の神々の聖地を対決の場とした。また850人の異教の預言者にたった一人で立ち向かった。さらに先取権を譲っている。最後にエリヤは祭壇に水をかけ、簡単には火がつきようもない状況を設定した。それらは、生ける全能の神の存在を見間違うことなく明らかに示す工夫で、全く勝ち目のない勝負に出たのである。そして「主こそ神です」という結論を引き出した。エリヤは勝利した。
今日カルメル山頂には、剣を振りかざしたエリヤの像が設置されている。観光の名所で、全世界からキリスト教徒のみならずユダヤ教徒も訪れる場所であり、一種出会いの場ともなっている。いつかは、米国からの牧師に声をかけられ、名刺を交換したこともある。しかし、カルメル山は、アハブにとって、天地創造の、万物を支配されるまことの神に出会ったはずの場であった。しかし、アハブは激しく打ち付ける主による大雨にも関わらず、神を認めようとしなかった。不信仰の頑なさの根は深い。
一方信仰が堅くされることもある。エリヤの祈りは、七度確認されている(43節)。一度や二度の祈りでは雨が降る気配すら起こらなかったということである。しかしエリヤは信じ、七度祈りを重ねた。信仰の堅さもまた神の賜物である。主が私たちの祈りを堅くされるように。