1列王記17章

17章 アハブ

<要約>

おはようございます。12章から始まる分裂王国時代の、歴代誌には描かれない最も重要なエピソードが取り上げられて行きます。神のことばに聞いたダビデ、神のことばから離れていくソロモン、そして神のことばに背を向ける王たちに、神の存在と神のことばを示し続けるエリヤ・エリシャ、という流れがあるというべきでしょうか。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アハブ

アハブ王はイスラエル人ではなかった。しかし神はこの王を退けず、むしろ、この王にまことの神の存在を知らせるために、預言者エリヤを遣わした。神は全人類の神であり、イスラエルを選ばれたのは、イスラエルを通して全人類を祝されるためなのである。

この時代イスラエルは、隣国のフェニキアと外交関係を結んでいた。イスラエルの農作物を輸出し、フェニキアの手工芸品を輸入する、いわば、パレスチナ地方で共存共栄の関係を結んでいた。だからフェニキアの王の娘イゼベルを妻として迎えたのは、外交関係を強固にする政略結婚という意味があったのだろう。しかし、このような政略結婚は、必然的に、フェニキアの宗教であったバアル礼拝をも取り入れることになった。そして、イスラエルの預言者を皆殺しにして、全てをバアルの預言者にすげ替える結果を生じさせたのである。

非イスラエル人が王となることによって生じたイスラエルの危機である。イスラエルの伝統が全て否定され、フェニキア化されようとしていた。かつてエジプトからイスラエルを連れだし、守り導いてくださったシナイの神、天地創造の神への信仰は失われ、その状況に警告を発する預言者も失われようとしていた。しかし、神は、このようにイスラエルを破滅させようとする非イスラエル人の王アハブを回心に導かれようとする。そしてご自身を力強く現された。聖書史の中で、奇跡が集中した時代がある。モーセ、エリヤ、そしてイエスの時代である。それは、天地創造の神に対する信仰が最も危機的状況に陥った時代である。呼吸停止・心停止の人間に電気ショックを加える救急処置のように、奇跡が用いられている。それは非イスラエル人もイスラエル人も皆、神を仰ぐようになるためであった。神は万人の神である。

2.神とはどんなお方か

最初に、自然を支配する神を明らかにする奇跡がとりあげられる(1節)。神のことばによらなければ「露も雨も降らない」という。パレスチナの降雨は一定のリズムがあり、日照りで固くなった土を軟らかくする10月末からの先の雨、1,2月の冬の雨、そして、収穫豊かにする3、4月頃の後の雨がある。エリヤの宣告は、そのリズムを止め、自然を支配するまことの神の存在を伝えるものである(アモス4:7)。バアルは、パレスチナの土着の宗教であり、自然を支配し、雨をもたらし、農耕の繁栄を約束する神として崇拝されていた。アシェラ、並びにアシュタロテは、バアルに対する女性神で、いずれも多産・豊穣の神である。このような宗教は、農耕を主体とするイスラエルには、馴染みやすく、一挙に受け入れられた。そこで「雨を降らせない」奇跡は、明らかに、バアル崇拝に対する挑戦となった。エリヤは、ケリテ川のほとりに身を隠した。そこは、ユダの領地である。

また第二の奇跡は、ツァレファテで行われた。そこは、アハブの義父の領地であり、エリヤは、バアル礼拝の最も盛んな地で、神の力を示した。「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」(16節)と、貧しいやもめの生活が守られる奇跡である。最初のものに比べれば小さなものである。しかし、最初の奇跡は有るものを無いものとすることであり、この奇跡は無いものを有るものとする奇跡である。主は自由自在に、みこころのままに取り、与えるお方である。

最後の奇跡は、貧しいやもめの息子を生き返らせる奇跡である(17-24節)。命を支配し、人間の不可能性を超えた神の存在が示されている。神は有るものを無いものとし、無いものを有るものとし、いのちをも支配される。その神のことばに信頼していく、それが信仰である。

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