1列王記16章

16章 バアシャからオムリまで

<要約>

おはようございます。北イスラエル王国の歴史が綴られます。オムリ王朝は、三代、約40年以上続いた王朝です。しかし、その著者は、その創設者オムリについては、書くべきものがないと考えたのでしょう。わずか7節しか触れられていません。著者の意図は、神との正しい関係を考えることにあると言えるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.北イスラエル王国

北イスラエル王国の歴史が綴られる。北イスラエルは、エフライム族のヤロブアム王朝の後、イッサカル族のバアシャ王朝へと引き継がれていく。しかしバアシャ王朝も、神の前に罪を犯し、神のみこころを損ない、ジムリの謀反によって倒れ、オムリ王朝へと引き継がれていく。次々と王朝が変転する中、神は、みこころにそぐわぬその王朝の歩みに対して、預言者エフーを起こし、警告を発せられてきた。

神との関係においていかに生きるか、ということはとても大切なことである。人は自分たちをお造りになった神を認め、畏れ、神のことばに耳を傾け、神の前に正しい歩みを心がける者として造られた。神が何を期待し、語られているのかに心を留めて歩いていく者として存在させられた。神と良き時を過ごす、神と時間を共有することが全てである。しかし、実際には、神をあまり重要視もせず、ヤロブアムのように神をお飾りにし、あるいは背を向け、自分の目に見えてよき人生を歩もうとしていることが多いものだろう。バアシャもこのヤロブアムと同じ道を歩み、ヤロブアムの裁きを受けていく。神を信じて歩んでいる、というのであれば、いつでも神のことばを自分の前に置くべきであるし、朝毎に神のことばに耳を傾け、まずは神の御心を巡らす歩みを心がけたいところである。

2.ジムリ

ジムリはアラム系の名前で、恐らく、イスラエルの部族の出身ではなかった、と考えられている。彼は、戦車隊の半分を指揮する戦車隊長であったが、この時、将軍オムリが率いる主要部隊は、南ユダの国境近くの町ギベトンにいた。ジムリは、北イスラエルの中心部、ティルツアにおり、おそらくユダ攻撃に備えていたのであろう。そこで酒に酔っていた王を討ち取ったのであるから、明智光秀の三日天下とも言うべき束の間の栄光である。王として君臨したのはわずか7日、将軍オムリによって打ち倒されていく。

3.オムリ

オムリも非イスラエル人と考えられている。彼は単に将軍オムリと語られ、その家系は記されていない。恐らく、彼は王族の出身ではなく、卑賤あるいは領土を持たない成り上がり者であったのだろう。こうして北イスラエルでは、イスラエル民族ではない者が王となっていく。だからこそ、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った」という、悪の深まりもあったのかもしれない。彼はイスラエルにバアル礼拝をもたらした。イスラエルには、まことの神がおられるのに、それをあからさまに否定する行為である。イスラエルの歴史に神がいかに介入されたかを知らない者が、王となることで、ますます大胆にイスラエルの国民を神に反逆する歩みへと導いていくことは、よく理解されることである。列王記の著者は、三代、40年以上も続いたこの王朝に、全体の三分の一の頁を費やしているが(1列王16~2列王12章)、この王朝の創設者であるオムリについてはわずか七節しか当てていない。著者の関心は、この王朝に関わり、神の存在と力を明らかにしたエリヤとエリシャの活躍に向けられ、単なる王朝の興亡ではなかった。著者の趣旨は、読者に神との関係について考え、生きることを求めることにある。

3.アハブ

オムリの子アハブは、イスラエルにバアル崇拝を広めてしまった。バアルは、カナンの地における偶像であり、豊穣の神であった。荒野の放浪の旅を終えて、カナンの地に農耕民族として住み着いたイスラエル人にとって、それは非常に受け入れやすい神であり、その神殿におけるいかがわしい儀式も、民の欲望に訴えるものだったという。敬虔な伝統と習慣は真っ向から否定され、神の民は、それを失ってしまった。

しかし、私たちが神の民としての歩みをしようというのなら、その敬虔な伝統と生活習慣を思い起こさなくてはならない。彼らは素朴なアブラハム、イサク、ヤコブの精神を思い起こし、ダビデの罪やソロモンの逸脱から学ばなくてはならなかったが、それは、今日のキリスト者も同じである。私たちが良き、キリスト者の伝統に生きていることを自覚し、先輩の成功からも失敗からも学ばなくてはならないのである。

パウロは、テモテに「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」と語った。神の前に忠実に歩むことは、歴史的なことである。伝達し受け継がれてきた部分を大事にする歩みでありたい。そのような意味では、積極的に聖書が私たちに何を語っているか、神と良き時を過ごすことを大事にしていきたい。

祈祷会は祈りの場であり、聖書のみ言葉を共有し、ただ心を合わせて祈ることがその本質である。礼拝は、神を覚え、神に共に栄光を帰し、神の御名を賛美し、神の御心に生きる決意をして後にするのがその本質である。交わりも大切であるが、何よりも神を中心とし、神を共有する時を、集まるたびに大事にしたい。

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