19章 ヒゼキヤの信仰
<要約>
おはようございます。実に、ヒゼキヤの信仰と祈りに教えられるところですね。極度の弱さの中に貶められながらも、主への信頼を失わない、それが信仰者です。いやいや、そうはならないという気持ちを持つかたもおられるかもしれませんが、それは、育てられ、養われる部分でもあるのです。必ずや主の者として捉えられ、揺るがない信仰へと導かれていくことを期待したいものです。今日も、あなたが主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.弱さの中の信頼
「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう」(3,4節)ヒゼキヤの信仰である。
昨日も、教えられたことであるが、この時、ユダ南王国は、全てをはぎ取られており、もはや何の望みもない状態であった。ただ裸身で神のみに頼る状況の中で、普通だったら、もうだめだ、神も仏もないと諦めてしまうところだろうが、ヒゼキヤは、この弱さの内に神が働かれる信仰を持ち続けるのである。彼は痛み悲しみつつも、自分の身の寄せ所を知っていた。ただ彼は、神が自分に応えてくださることを確信していたが、その実を得ることができない、もうすぐ喜びが訪れようとしているのに、その胎の実を産み出す力がないと感じていた。もし祝福があるとしたら、神の憐れみのみによるという、極限まで弱められた姿がそこにある。
望みえない時にこそ、神に望みを持つ、信仰を持つ者にはよく理解されることだろう。そして、本当に望みえない、全く自分が無に帰せられる時に、神の憐れみがあれば、となおも主の前に祈り続ける、それは、彼の信仰を証していた。彼にこのような不動の信仰を与えたのは、やはり、「高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた」徹底した神への従順があったから、あるいは、「彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った(2列王18:3)と神に評価されるような生き方があったからである。彼はその義しい歩みの故に、確信をもって主に祈り続けることができたのだ。となれば、キリストの義の故に、神に受け入れられている私たちはなおさら、深い確信を持って祈り続けるべきものである。だが、そのようになれず、神との関係にぐらつく時代も当然あると言うべきだろう。そのような時代を経て、なおも、イエスが「私に留まりなさい」と命じられたように、主のみことばに自分を浴し続ける時に、神が私たちの魂を捉えてくださり、私たちは、ヒゼキヤのように、望みなき所で、もう神も仏もないという風にはならず、極限までも弱められながらも、生まれる、しかし力がない、主よあわれみを、という祈りをすることができるのである。そしてヒゼキヤにイザヤのことばがあったように、そのような信仰を支え続ける、神のみことばも与えられるのである。全てよきものは上から与えられる、と言うべきだろう。
3.ヒゼキヤの祈り
そして教えられるのは、そのような中で、どう祈るかである。重ねてアッシリヤの脅しの手紙の圧力が加えられた時に、14節、ヒゼキヤは、ただそれを手に、主の宮に上って行って、それを主の前に広げて祈った、とある。単純なことである。なすべきことをなす、淡々と祈り続けることである。悩まず、嘆かず、ただ、事実を示し、神に訴えるのである。望み得無き状況で、自分に神の奇跡を産み出す力がないことを素直に認めて、ヤコブがそうであったように、あるがままに神に寄りすがるのである。主の祝福なくして、もう一歩も先に進めない、と神にしがみついて、祝福の神を去らせないのである。
4.義しい神、契約を守る神
アッシリヤの軍隊は一夜にして崩壊した。何が起こったのか、細菌性の赤痢が起こったのではないか、ペストが起こったのではないか、色々と推測は去れているが確かなことはわからない。ただ、それは、まさに主のあわれみを示す歴史的出来事として生じた。ただ、ルーブル美術館所蔵のセンナケリブの年代記の断片に、それは、記されていない。
主は、万物の創造者であり、保持者である。センナケリブが自らの実績として誇示したことばも、それは、神のご計画の中で起こっていたことである。主はセンナケリブの一挙手一投足を見て(27,28節)、そこに高慢さを認め、アッシリヤに引き戻されることを決意された、と語る。ヒゼキヤが願ったことは、センナケリブの圧力が解除されることであった。しかし、主の関心はユダを圧迫するセンナケリブの横暴よりも、センナケリブ自身の高慢にある。ユダはユダで、センナケリブはセンナケリブで、主は裁かれるべきことがあるとみておられる。
また、全てをはぎ取られ、たとえこの危機を回避しても先のないユダに、主はさらに憐れみを加える約束をされている点に注目される。荒れた畑は修復され、しばらく途絶えていた収穫が再開する、と(29節)。「下に根を張り、上に実を結ぶ」(30節)。実に、私たちが試みられるときに、私たちに下に根を張る余裕もない。ただ取り立てに追われる毎日で、何の余裕もなく、緊張に心が無感覚になることもあるだろう。だが、神は憐れみを加え、その約束を、熱心さによって、また「わたしのしもべダビデのために」(34節)という契約の確かさのゆえに守られるとする。
究極的な解決は神にあることを知らねばならない。人生には、身内も友人も助けにはならない、組織も助けにはならないことがある。孤立無援の中でなすすべ尽きてしまうことがある。しかし、神に望みはある。神の憐れみに寄りすがり続ける霊的な深さを持とう。