2列王記1章

2列王記1章 アハズヤの死

<要約>

おはようございます。宗教は究極の問題解決手段であると言われます。確かに、聖書の神は、天地創造の神、万物を支配する神であるとすれば、人間の諸問題に責任を負い、これに働くことのできるお方と言えるでしょう。神を覚える歩みをしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.病に陥ったアハズヤ

アハブの子、アハズヤが病気になった。王は、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てるため、使者を遣わした。サマリヤからエクロンまでは約72キロ。当時は、約2日の御道のりであったが、使者はすぐに帰ってきて、神のことばを伝える。「アハズヤは治らない。必ず死ぬ。」不思議に思ったアハズヤは、そのように語った人物が誰であるのかを確かめている。「毛皮を着て、腰に帯を締めていた人」父アハブが何度も接触した人物エリヤのことをアハズヤも知っていたのだろう。彼は、それは「ティシュベ人エリヤだ」と悟のである。

彼は語られている。「あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。」(3節)実に、私たちが窮地に陥った時に、一体どこへ助けを求めるものかを考えたいところである。窮地において私たちの足と心はどこへ向くのか。

キリスト教徒の間でなされる牧会カウンセリングと、世俗の世界でなされる一般カウンセリングの違いは、明らかである。前者は、カウンセラーとクライエントの間に、神の御言葉に対する信頼、神のみことばによる解決を願う思いがなければ、成り立たない。カウンセラーもクライエントも、神の解決を意識して、互いに、神のみこころを探っていくのである。しかし、一般のカウンセリングで、究極の解決方法を与える神の存在は意識されない。だから、カウンセラーとクライエントが二人きりで、互いに語り合う人間関係そのものが勝負なのである。キリスト教徒に必要なのは、こうした一般のカウンセリングではなく、カウンセラーと共に、神の解決を探る牧会カウンセリングである。人の慰めでも知恵でもなく、神にこそ解決の力がある、という確信である。

2.神による解決

パウロは、「『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。・・・そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。」(使徒17:28、29)と語っている。神は確かに遠く離れておられるお方ではなく、私たちとともにおられるお方である。それは、人間の手で造られた金や銀や石の作り物ではない。私たちが病になった時、窮地に陥った時に、一番大切なのは、目に見えない、天地の作り主、私たちの主を心から呼び求めることであろう。今ここで、目には見えないが確かに生きておられ、私たちをお造りになり、私たちの人生に責任を取られる唯一のお方である神を心から叫び求めることである。

アハズヤは、エリヤに50人隊の長を遣わした。自分にとって耳障りの悪いことを語るエリヤの口を封じたかったのだろう。しかし、神はエリヤを守られた。神は、エリヤを捕まえようと送られた二人の50人隊の長を火で焼き殺された。

かつてイエスの弟子たちも、同じように火を下すことを求めたが、イエスに叱責されている。明らかにその状況は異なっている。ここではエリヤと神の言葉が守られるために火が下されているのであり、確かに三番目の50人隊長はその事実を認め、「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ50人のいのちとをお助けください」とエリヤの前にひざまずき懇願している。

大切なのは、そのように守られたエリヤも、私たちと同じような普通の人であったことである。彼は、旧約時代においては「神の人」と呼ばれたが(9-13節)、初代教会の指導者には、私たちと同じ人間であったと認識されていた(ヤコブ5:17)。つまり、私たちもまた、エリヤと同じような神の守りと神の力の中に生きることができる、ということだ。

全て良きものは上から来る、この確信に立って歩みたいものである。神にこそ究極的な解決があるのであって、私たち「普通の人」を「神の人」と呼ばわせる力も神による。神の偉大なご計画に対する忍耐を失わず、神が私たちの生活に、多くの解決と恵みをもたらしてくださる時を共に熱心に祈りたいものだ。日本に神がいないのか。そうではない。求めるべき神がここにおられることを覚えたい。

 

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