1列王記22章

22章 アハブの死

<要約>

おはようございます。山形は今日も快晴、気持ちのいい日です。じっくり聖書を読みながら、これが一般史とどのように結びつくのか、多々不明点がある中で、限られた情報の中で、主のみ言葉の意図を掴んでいく他ありません。であればこそ神の物語として大筋から読んでいくということは、大事な読み方なのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アラムとの戦争

アラムとイスラエルは、3年の間戦いのない時を過ごした。今後の研究によるのだろうが、考古学的にも碑文として残され、古代オリエント史に記録されるシャヌマネセル3世の西進を阻んだ、パレスチナ同盟軍によるBC583年のカルカルの戦いとどのような時間的な関係にあるのかは色々な議論のあるところだが、よくわからない。

ともあれ3年目、イスラエルの王アハブがアラムに戦争をけしかけた、という。というのも、アフェクでベン・ハダデに同意させたこと(20:34)が守られなかったからである。ラモテ・ギルアデは、アラムとイスラエルとの国境の町であるが、それは約束どおりには返還されていなかった。

そこでアハブは国家の神に伺いを立て、吉兆を求めようとした。四百人の預言者というのは、おそらくべテル(12:28-29)を拠点とした預言者であり、アハブに盲目的に忠誠な者たちだったのだろう。彼らは 勝利を予告した。しかし、共に戦うように要請されたユダの王ヨシャパテは、その答えに満足できなかったようである。他に御心を求めることのできる主の預言者がいないかどうか尋ねている。預言者ミカヤが連れて来られた。アハブは、ミカヤを疎ましく思っていた。というのも、自分の意に反することを語るからである。この時も、ミカヤは四百人の預言者を偽預言者とし、アハブの死と軍隊の壊滅を予告、警告を発した。

アハブに遣わされた使者たちは、王の耳によい預言を語るように説得しようとしたが、あえてミカヤは、主の真実を語っていく。それは自らの命を賭けることでもあったが、ミカヤは忠実に神の言葉を語る。どうしても私たちは自分の耳に良いことを語る人のことばに耳を傾けやすい。それは私たちの心の弱さである。愛をもって真実を語ってくれる人を見極め、心を開いて聞いていく者でありたいところではないか。

2.アハブの誤算

アハブは、「変装」して戦いに出た。幾つかのギリシャ語写本では、目立たないように兜を被ることを意味している、という。恐らく、注意を自分からそらそうとした、つまり、ミカヤの預言を気にしていたのである。しかし、アハブに対するミカヤの預言は思わぬ形で実現した。一人の兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺りの間を射抜いた、という(34節)。その傷は深かく、致命傷となった。かつて、気まぐれに一人のいのちを危めたアハブは、気まぐれな兵士の矢でいのちを落としていく。それはある意味で、彼にふさわしい報復であった。

しかしながら、それは同時に、私たちの勝利も、失敗も、あるいはいのちも死も、自らの計によるものではないことを思わせるものである。人間は誰でも、健康に気遣い、危険を避け、少しでも長生きすることを願う。しかし、人はどんなに知恵を使い、自分のいのちを気遣っても、それは無駄な努力になりうることに気づかなければならない。神が私たちのいのちを長くも、短くもされるからだ。私たちの生活も働きも、皆神の御手の中にある。私たちが何を望もうとも、神が私たちの味方にならない限り、私たちに本当の勝利はない。アハブは自分を楽しませるために象牙の家を建てたが、結局、彼はそれを不本意に手放さなくてはならなかった。結局、神を畏れ、神の命令を守ることが人間にとってすべてである。

2.人生において悟る

その後、ヨシャパテは主の目にかなう歩みをしたと列王記の著者は語る。また、アハブの子アハズヤが、協同の貿易を申し出たがそれには乗らなかった。アハブとの出来事を機に不釣り合いな交友を避けたのであろう。

本来ヨシャパテは、戦う必要のない戦争に巻き込まれた。それはイスラエルの王アハブの娘と結婚したためでもある。釣り合わぬくびきを負うこと自体が、私たちに災いをもたらすことがある。しかし多くの場合、私たちは短絡的に物事を考え、一つの決断がその後の人生にどれほどの影響を及ぼすかも、わからずにいるものである。しかしヨシャパテが、王服を着せられ、身代わりの戦いを戦わせられ、さらに、自分の魂を死の危険にさらすことになったように、人は自分の運命を見定める力に乏しいことが多い。神を畏れ、神の命令を守る者たちとの交わりをこそ、大事にし、いよいよ神に喜ばれる歩みをする者でありたい。

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