30章 メシヤの苦しみの窮み
<要約>
おはようございます。よくヨブ記は、苦しみの意味を解き明かしているなどと言われることがありますが、私はそんな風にはあまり感じないのです。むしろ、ヨブ記は、キリストがどんな苦しみを乗り越えられたのかを思いめぐらせてくれる、という点で、素晴らしい書だと思います。29章を読んだ時点で、自分とヨブの存在の乖離を感じる人は多いでしょう。ヨブの苦しみに自分を重ねたところで、自分はヨブほど潔白ではないなあ、と。自分の苦しみに重ねて読むことは止めだ、と。むしろ、キリストの苦しみに重ねて読むならば、それ以上の慰めがそこにある、と私は思います。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.卑しい者まで私を嘲る(1-8節)
29章はヨブの輝かしい過去を語り、続く30章は1節、「しかし今は」と、一転して現在の悲惨な苦境を語っている。それは、感情を丸出しにした、赤裸々な言い方であり、屈辱的な状況である。
かつては、誰も彼もが、最高の地位にあったものすら自分に敬意を示したというのに、今は、逆に、卑しい者にすら笑いものにされている。しかも彼らは、かつてはヨブが助けたであろう人々だ。貧しさの中で放り出され、食べ物といえば、木の根や葉ばかり(4節)、人々には浮浪者のごとく追い払われ(5節)、谷の斜面や、洞窟、岩場に住む他なく(5-7節)、藪の中で惨めな境遇にうめいているような人々(7節)、実に社会から締め出され、何の役にも立たないと棒で追われるような者たちである。ヨブはそのように助けた人々の「若者」つまり子供たちにも侮辱されている(8節)。
2.神がそのように仕向けたのだ(9-17節)
彼らは人間の屑ともいわれるべきもの。その彼らに私は嫌われ、唾を吐きかけられている(10節)。かつては、私の弓弦はピンと張って、こんな攻撃をかわすなどほどでもなかったが、なんと今では、神がお許しになったのだろう、彼らはやりたい放題だ(11節)。なんとも身の程知らずの彼らは、裁判に例えるならば、私の右側に立ち、言いたい放題の証言をしている(12節)。町に例えるなら、町を攻め落とそうとする敵が近づいてきて、城壁を破り、そこからなだれ込む敵兵士のようなものだ(14節)。彼らは寄ってたかって、私を滅ぼそうとしている。それは、私の考え過ぎ、だろうか。しかし、今や誰も彼もが敬意を払った私の威厳は消え失せ、私の心の平穏は、全く失われているのだ。ただ一人きりで、私は恐怖を味わっている(15節)。そして、実際にこの体の苦痛、これは厳格ではない。私の心も体も休むことのない痛みにさらされている(17節)。
ヨブは、病の苦しさの中にあった。議論だけを追っていくと、何か彼が重病人であることを忘れてしまいそうであるが、ヨブは、病の苦しみのどん底にあった。いつまでこの重たい死体の様な、役立たずの身体を引きずって生きて行かなくてはならないのか。外からではなく、まさに切り離しがたい自分自身の身体からの痛みに絶望的な思いに駆られているヨブの姿がある。それは、永遠に抜け出しがたくすら思われるどん底だろう。
3.人よりも神の敵対が辛い(18-24節)
何よりも、これが神のなさったことであり、神が私を雁字搦めにしている(18節)。神が私を、卑しい奴らがするように、私を泥の中に引き倒し、私をサマリヤ人の旅人のように、全てを追剥して、塵まみれにして地面に転がされたのだ(19節)。
そこから立ち上がって、神を呼び求めても、神は答えてくださらない(20節)。神は冷酷に、顔を背け、私に鞭を加えられる(21節)。三人の友が送られて、次々と巧みな言葉の論争をもって、私の精神まで混乱させようとしている(22節)。私にはもう全く望みがない。ただ死に伏すだけだ(23節)。もう瓦礫となり、捨て去られるだけの状況であっても、人は、神に助けを求めるものだろう。だがあなたは答えてくださらない(24節)。
ヨブは、内側から突き上げてくるどん底の思いについて語っていたが、続いて神にそっぽを向かれ、敵対されている、というどん底の思いを語るのである。
4.私は憐れんだのに、あなたはそうではない
そしていじましくも言う。自分自身は、救いようのない人達に出会ってきて、哀れみを施した。しかしあなたは違う、と(25節)。私は痛む者と共に痛んだ、と。しかしあなたは、そうではない。この苦しみの中で、あなたの良き解決を待ち望んだが、一層どん底でこのまま終わろうとしている。光を待ち望みながら、闇は一層深くなるのだ(26節)。この裏切られた思いを私はどうしたらよいのか。もはや、私には苦しみだけが残されている(27節)。もはや太陽の光すらない、そんな思いの中で、誰彼ともなく助けを求めても、誰も振り向いてくれない(28節)。夜な夜な切ない吠声を聞かせるジャッカルの群れ、あるいは、悲痛な鳴き声を聞かせるだちょう(ミカ1:8)の仲間ならば、私の居場所もあるのだろうか(29節)。
ともあれ今の私の皮膚は病のために黒ずんで、骨まで蝕まれた痛みの中にいる(30節)。かつての歌を歌う人生はもはや終わって、今は喪に服すばかりである。弔いの歌を歌うのみである(31節)。
昨日も書いたことであるが、このヨブの苦悩の中には、福音書が推測を止めて、多くを語らなかったイエスの苦悶を思わせるものがある。実際私たちは、イエスが当時持ちえた人間関係などあまり考えもせずに十字架の贖いを考えている。しかし、イエスは一人で生きてきて十字架にかかったわけではない。十字架の精神的苦悩は、イエスが、関わってきた人々との関係、その人々から向けられた敵意と複雑に絡んでいる。最後には親しい友「ペテロ」までイエスを裏切ったのであるから、その背景には、様々な人間関係の破たんがあったはずなのだ。イエスは、社会の屑と呼ばれるような人と喜んで友になられ、そのような人たちを助けた。しかしその人たちに、自分たちとは関係がない、という白目を向けられた状況もあったことだろう。そしてイエスが助けた人々の子どもにすら侮辱される結果もあったことだろう。そして、むち打ちにしろ、磔刑の苦しみにしろ、それはまさに、イエスを骨まで蝕む苦痛であったことは確かなのである。さらにイエスは「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」と、神に見捨てられるどん底の不幸を味わっている。
だが、神はイエスを見捨てられたようであるが、そうではなかった。神はイエスをそのように卑しめる中、イエスを私たちの救い主としてくださったお方である。となれば、このヨブの苦渋に満ちた独白に、イエスが私たちの罪の赦しのためにどんな苦労を乗り越えたのかを教えられるのである。神は、見捨てるお方ではなく、しばし時を必要としたお方である。そしてイエスは、どん底にあることによってどん底の者の叫びを知っておられる。だからどん底にあると思う時にこそ、どん底を味わった神が私のことを覚え、しばし時を要しておられる、と考えたいものである。そんな時に、諦めてしまったらそれで終わりである。どん底で何も望みがなければ、真の神に望みを抱くようにしよう。主は真実である。