ヨブ記29章

29章 過去の幸い

<要約>

おはようございます。ヨブ記というのは不思議な書です。ヨブ記を描いた著者の意図を考えさせられるのは、今日の箇所を読むような時です。過去の栄光を嘆くヨブ、しかし、そこに、私たちは、イエスがどんな苦しみを、人間として感じ、また乗り越えられたのかを思わされるのです。主イエスの十字架の恵みを感謝したい一章でしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神と親しく楽しい時があった(2-6節)

ヨブは、困難の中で、自分が幸福であった時代を回顧し、懐かしんでいる(2節)。「あのとき」神はまさに、ヨブの「周りに、家の周り、そしてすべての財産の周りに、垣をめぐらされた」のである(3節)。「私がまだ壮年であったころ」、直訳は「私のいのちの秋に」である。つまり人生の収穫の時、成熟の時という意味だろう。いわゆる人生の最盛期に、「私の天幕の中には神との親しい交わりがあった」という。実に、ヨブの正しさに対する根拠はここにある。彼は、自分が完全であることに拘っているわけではない。人間に完全さを主張しえない。しかし、神との親しい交わりがあることにおいて、人間はその正しさを主張しうるのである。

2.誰もが人目おいてくれた(7-11節)

ともあれヨブは、神の恵みによって、権威ある存在とされ、そのように扱われた、ことを回顧する。若者たちも、年老いた者も、皆、自分に席を譲り、権威ある者も、皆自分のことばに注目した(8-10節)。私を見るだけで人々が、私の意見に賛同する、そんな状態であった、と(11節)。

3.私は弱者を守った(12-17節)。

実際、私は、弱者を守ったのだ。目の見えない人の目となり、足の萎えた人の足となった(15節)。要援護者の側に立って、彼らを擁護し、そして不正を働く者の不正を厳しく追及した(16、17節)。

4.私は衰えることはなかった(18-25節)

そんな日々において、ヨブが考えたことは、このまま最期まで自分はいくのだろう、ということである(18節)。健康で、衰えを知らず、深くはびこった根に支えられた大木のように、自分の人生は安泰で、朝毎に、また夜露に濡れて潤う樹皮のごとく、夕毎に力づけられる。そして、どんな難題についても、次々と解決の矢を放つ力は衰えない、ということだ(20節)。

だから、いつだって、人々は私の言うことに耳を傾けたし、そのまま受け入れた(21節)。23節、「後の雨」は、、3月から4月頃、雨季の終わりに降る雨で、祝福の雨(申命11:14)あるいは、「春の雨」(ヤコ5:7)とも言う。収穫のために必要で、穂を太らせ、果実を熟させ、穀物の豊かな実りをもたらすのに必要な雨である(ヨハネ4:35)。ヨブのことばは、そのように待ち望まれた、ということだ。いや、そればかりではない、私のことばは、人々に方向を指し示し、その行くべき道を踏ませる、そのようなものだった(25節)、と言う。

それなのに、今ははなんてことだ、と30章につながる部分である。

不運の渦中で、いたずらに過去を懐かしみ、嘆くことがあるだろう。ヨブもまた同じようだ。かつて自分が人生を楽しんだ時々を振り返り、他の人々に手を貸し、施しをした日々を振り返っている。それはヨブにとっては黄金の日々、ヨブの人生を力あるものにした日々だ。そのように後ろ向きになる時は、決まって私たちは自分のことしか考えられなくなる。人のことは考えられない。気を付けたいところだ、とまとめたいところが、ヨブの回顧を描く著者の意図はそんなに単純ではない。

というのは、ヨブのモノローグは、苦難にあって、何一つ心を明かさなかったイエスの心を思い図らせるものがあるからだ。この箇所は、単純に個人の過去の祝福を語るのではなく、メシヤ預言的に、キリストがかつて父と共にあった完全な祝福と栄光を回顧している部分である、と思わされるところなのだ。

14節、「私は義をまとい、義は私をおおった。私の公正さは上着であり、かぶり物であった。」とヨブは告白する。それはまさに、ヨハネが書き留めたイエスの告白を思い起こさせる。「父よ~(略)~世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(17:5)」25節、「王として軍勢と共に住まい」まさに苦しみの中で、信仰的に過去の栄光に立ち戻ることを臨み見るイエスの姿を思い起こすところではないだろうか。

「砂」と訳されたヘブル語は「不死鳥」をも意味する。「巣とともに息絶える」は、不死鳥がアラビヤ砂漠に住み、5百年生きると、その巣に火をつけて焼け死に、生れ変ると言われるエジプトの伝説と関係があるともされる。となれば、まさに過去のイエスの栄光は永遠のものであったことを思わせる。

この箇所をヨブという人間の苦しみだけで見ていくなら、そこには、報いられない苦悩とその意味が問われることになる。しかし、そこに、メシヤのテーマ性が画されていると見て、メシヤの苦しみを重ねて読むのならば、赤裸々な苦しみの独白に、メシヤが私たちの救いのためにいかなる苦難を乗り越えたのかを教えられるのである。かつての栄光の高さから、十字架の低さに降りて、苦しまれたイエスを思わされ、深く感謝するところではないか。

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