ルツ記2章

2章 神の裁きと思われることは、神のご計画に過ぎない。
<要約>
おはようございます。ルツ記、とてもよいですね。ナオミは終わりに、ルツは始まりに目を留める、信仰者の分かれ道です。信仰に立って生きようとするならば、常に、良きものを拒まれない神に期待し、神を仰いで前進するのみです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.帰京
ナオミは、夫や二人の息子を失ったが、信仰で結ばれた嫁のルツが与えられた。二人は、旅をしてベツレヘムへと帰った。彼女たちがベツレヘムに到着したのは、大麦の刈り入れの始まった頃、現代の暦では4月ごろになる。二人の到着に、町中が騒ぎ出して、女たちは「ナオミではないか」と声をかけた。しかし、ナオミは、「楽しむもの」を意味する自分の名で呼ばれることを拒み、苦しみを意味する「マラ」と呼ぶように、と答えている。ナオミは「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」と語る。すべてを支配される全能の神が、全てを取り去って、丸裸でこの地に引き戻された、そんな思いで心は圧倒されていたのだろう。確かに、ナオミにとって、夫を失い、息子をも失うことは人生最悪のシナリオである。「苦しみに会わせた」というヘブル語は、マーラルの変化形で、マラと語呂合わせになって、強調されている。
3.神の摂理と落穂ひろい
ルツは、生計を立てるために、落ち穂拾いに出かける。当時、ユダヤでは、貧しい者と寄留者には、収穫後の落ち穂拾いの権利が与えられていた(レビ19:9)。彼女は、ある意味で屈辱的とも思える仕事を進んで買って出て、その仕事を誠実に、喜んでしようとしたのである。しかしそこに神の導きがあった。ルツははからずもボアズの畑へと導かれた。ボアズは、ナオミの夫の親戚で、エリメレクの一族に属する有力者であった。有力者と訳されたヘブル語には、「裕福な者」という意味もある。確かにボアズは町の有力者で金持ちでもあり、さらに買い戻しの権利のある親類であった。つまり、エリメレクは土地を所有していたが、跡継ぎがいなかったため、その土地は売られて他人の手に渡ろうとしていた。ボアズはその土地を買い戻す権利を持つ一人だったのである。
ボアズは、働き者のルツに好意を寄せ、落ち穂を拾いやすいように、畑にいる若い者たちに邪魔をせず、配慮するよう命じた。こうして、大麦の落ち穂拾いは、ルツにとって大切な生活の支えとなった。大麦1エパは、約22リットル。当時の一番上手な落ち穂拾いが普通に集めるものより、はるかに多い量である。ルツは期待以上に働いたのである。神はこのように自身の限界の中で、神に従おうとする者の生活を保証してくださったのだが、実はそれ以上のことをなさろうとしていた。ナオミは、かつて二人の嫁を思い、主の恵みを祈ったのだが(1:9)、その祈りと期待に応えようとされていたのである。
3. ルツの信仰の祝福
2章以降は、ルツの信仰がどのように祝されたのかを見る興味深い記録である。神を認め、神に従うようにナオミに仕えていく異邦人の女性ルツの信仰的な決断を、神は祝福された。ナオミは「主の御手が私に下った」「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」そのように自分や自分の置かれていた状況を見ていた。確かにそんな思いに囚われ、何の希望も持てないことが人生にはあるものだろう。神が私たちの敵になったと孤立無援な思いに満たされることが。しかし、終わりに見えることは始まりに過ぎない。ナオミと同じ信仰に立とうとしたルツは、ナオミと違って終わりではなく、始まりに期待した。生ける神が、力強く、その最悪のシナリオに、どのような続編を新たに書き加えてくださるかに期待した。大切なのはそのような信仰を持って、神の前に忠実に生きることである。困難な状況にあっても、その置かれた場にあって神を待ち望むなら、神は必ずよくしてくださることに間違いはない。どんな苦難にあっても、心を腐らせてはならず、あきらめてはいけないのであり、自分が置かれた限界の中で、主の恵みを仰いで、主を信頼し最善を尽くすことだ。主を信頼し、主を第一とし、主のために一切を献げる覚悟をする者に、主は、聖書に約束された特権と祝福を豊かに注いでくださる。神の裁きと思われたことは、神の祝福のご計画の一面に過ぎない。万人を愛される主を覚え、神が与えられた関係に忠実に仕え、与えられた仕事を期待以上にこなし、祝福にあずかったルツの物語が、日本人の私たちに対しても神の祝福の恵みを語っている。

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