第1巻 1篇 二つの道
<要約>
おはようございます。今日から詩篇に入ります。詩篇1篇は、詩篇全体の要約と言われているものです。ここに、神の道に生きる幸いとそうでない人生が対比されて描かれています。熟読しつつ、神の道に生きる幸いを選び取って歩みたいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.詩篇について
詩篇はヘブル語でテヒリームという。「賛美の歌」を意味する。全体的に希望感にあふれ、神の普遍性、至上性、永遠性への賛美などがある。率直に自身の心情を述べるものが多い。つまり詩篇は、私たちの今を扱う。だが、既に述べたように、ヨブ記を前提として読まなくては、厚かましい祈りになりかねない。神と人の違いを弁えた遜りと、キリストの贖いに寄り頼む祈りと賛美として、読んでいきたいところだろう。今日はその最初の一篇、しかし詩編全体の導入であり、要約とも言うべき一篇を読む。
2.幸いな者の歩み
それは、幸いな者の歩みを、消極的な面(1節)、積極的な面(2節)から対比し、その結果をまとめる(3節)。
まず、幸いな者は「~しない」。彼は識別力を働かせ「はかりごとに歩まず」、「罪人の道に立たず」、「あざける者の座に着かなかった」三つの異なる態度と段階において弁えのある者である。これは悪いはかりごとであり、悪者の歩みであり、悪者の状態に落ち着くことであると感じるなら、そうした歩みを放棄していく。「あざける者」は、悔い改めからは、最も遠い存在で、「~してはならない」と命じる神の戒めを尊重することはない。
以上消極的に自分の行いを律するのみならず、「~する」という面も大切である(2節)。神がおられることを喜びとする。神とともにあることを喜びとする。そして神の教えを口ずさむ。これは、小鳥がさえずるように、聖書のことばをまさに口ずさむことである。単に瞑想するのではない。繰り返し繰り返し、聖書のことばを口ずさみ、聖書が教えようとしているものを体得していくことである。「瞑想」では、何かあれこれ考えて、知を見出す感じがあるが、ここは、神のみことばを魂に打ち込み、染み込ませることが求められている。人の思いを形作るものが、その人の人生を形作るためであろう。行動を起こすよりもまず、神のみ教えに諭されていく、整えられていくことが大切で、それが3節に述べられるような祝福に満ちた人生へとつながっていく。悪には距離を取り、神には自ら近づいていく、こうした歩みが私たちを幸いへと導く。それは水路の側に移植された木にたとえられる。果樹は時が来れば実を結ぶ。実を結ぶ行為は一度限りではない。繰り返し実を結んでいく。
3.悪しき者の歩み
詩的技巧を思わされる構成がある。前半に対比し、悪しき者の歩みが語られる。エレミヤ17:5-8とは逆の構成となっており、「荒れ地のむろの木」は、「風が吹き飛ばすもみがら」と言い換えられている。それは根無し草で、何かが起こると跡形もなくなってしまう、悪しき者の運命の本質をよく描いている。確かに悪しき者は、たとえこの世の崖っぷちをうまく渡りを得ることができたとしても、終末的な神のふるい分けに耐えることはできない(5節)。その日は、殻やわらくずを吹き飛ばされ、穀粒だけが残る日であり、わらの人間、わらの人生が明らかにされる日なのでもある(1コリント3:12-13)。
正しい者の集いは、公的礼拝を言う。実に礼拝は、神の恵みと御業を想起し、神を認める行為である。そこから悔い改めと癒し、感謝と喜びが起こり、再び世に遣わされていく祝福が生じる。神を否定し、習慣的な悪を行う者に、それは何の価値もない。だから、真に神を喜びとし、神の道を選ぶ者にとって、それは、悔い改めと恵みの躍動感あふれる時であり、幸いを繰り返し味わう時であもる。確かに、主の教えを喜びとし、その教えを口ずさむ者は、公的な礼拝をも大事にするであろう。
また6節、「主は正しい者の道を知っておられる」知るは、神の御守りと導きと配慮があることを意味している。親が子を知るように、神は正しい者の歩みを知っておられる。ここに私たちの幸いがある。「滅びうせる」は様々な意味を持つ。希望を失うこと、計画が挫折すること、道に迷うこと、物事に失敗することなど。いずれにせよ、人に第三の道はない。悪しき者のはかりごとか、主のおしえか二つの道のいずれかを選択するのみである。