出エジプト記35章

1.安息日
今日クリスチャンは聖日をどのように受け止めているのか。イスラエル人には、安息日を「花嫁」と呼ぶ伝統がある。そして花嫁を迎えるにふさわしい備えをするのである。つまり金曜日の夕方になると、身を清め、特別な衣服を身につけ、特別な食器を並べる。また、安息日にはシナイの荒野で二日分のパンを蓄えたことに基づき、ハラ―という二つのパンを用意する。さらに日没前に二つの燭台を用意して灯りをともす。妻は安息日に必要な分の食べ物を料理し、その際に、「あなたの名によりわれらを聖別し、安息日の光をともすように命じたところの宇宙の王、われらの主なる神に祝福あれ」、と祈るという。夫は会堂で祈りをささげ、帰宅すると安息日の夕食が始まる。そこで家族それぞれのために祝福を祈り、共にパン裂きをし、食事をし、家族の一体感を深める時を持つという。またその喜びを歌う歌を、夜更けるまで歌うこともあるという。
安息日は、こうして楽しみの日となり、家庭はレクリエーションの場ともされる。親しい人たちを訪れ、おしゃべりやゲームで楽しんだり、祈りと瞑想の日としたりして過ごされる。特に午後、会堂や家庭で集まりあって聖書を学ぶ時を持つ。安息日の終わりには、安息日の花嫁に別れを告げるハブダラー(「別れ」を意味する)という儀式がおこなわれる。メシヤとエリヤの再来を願い、「聖なる者を俗なる者から、光をやみから、イスラエルを他の人々から、七日目を労働の六日から分けたもう神に祝福あれ」という祈りで閉じるという。
聖書は、安息日を守るようにと語る。この日を神に命じられた特別な日として覚える工夫が日本人の私たちにも必要なのではないか。重荷となるような安息日ではなく、喜びとなる時を過ごすようになるために。
 日本人のクリスチャンにとって学ばなければならないことは多い。学んでそのことに習熟していくべきことがいくつかある。一つは先にも述べたような安息日の過ごし方。いわゆる聖日の新しい習慣を形作ることである。やはり日本人の文化に聖書の文化は新しいものである。西洋文化と切り分けた聖書が教える文化にこそ馴染んでいくことが必要なのである。
(2)奉仕
二つ目に奉仕がある(4-9節)。心から進んでささげる、主への奉納物を持って行く、こういう文化は無神論の日本人文化の中からは生まれては来ない。やはり、聖書を読み解く中で、教えが浸透する中で育って行く部分ではないか。そういう意味では、天地創造の神を意識することなしに、心から進んでささげることも起こらない。霊の眼が開かずにして、奉仕もありえない。神を覚えることなき奉仕は、ただ教会組織の仕事をこなすだけである。しかし、仕事は、具体的な対価をどうしても求めるものであるから、奉仕を仕事と取り違えているようなら、いずれ行き詰まってしまうわけだ。奉仕は対価なくしてもなすべきもの、ささげたい気持ちに駆られて、進んでささげるもの、主への奉納物としてなされるものである。
 また、それは、知恵を尽くしてなすべきものである。26節「感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ」とされる。自分の最善を尽くしてなすものである。余った時間に、やっつけ仕事としてやるようなものではない。祈りを持って、また丁寧さをもって、自身の最善を尽くしてなすべきものである。ただ、それは、自身の最善とは言え、神が備えてくださる最善でもあることに注意しなくてはいけない。34節「彼の心に人を教える力を授けられた」、35節、「主は彼らをすぐれた知恵で満たされた」という。主が満たす知恵によって、最善の奉仕をなしていく。ソロモンがそうであった。ソロモンも主の知恵に満たされて、自らの王の務めを全うしたのである。このようにしてイスラエルの民は幕屋を造り上げた。幕屋は、彼らの礼拝の中心である。教会もそのようにして建て上げて行きたいものである。

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