出エジプト記37章

1.装具の製作
モーセが彷徨った荒野は、荒涼とした岩地である。そんな土地で、よくもこれだけの技術や細工をサポートする材料や道具が揃ったものだと思うところがある。まさに、神の助けなくしてはなしえない事柄であった。人生に不可能と思われることは多い。しかし、人に勇気と希望を与える物語には、人間の力以上の働き、神の助けによってなされる何かがあることを認めなくてはならない。
 幕屋建設の棟梁ベツァルエルは、神に命じられたまま、一つ一つの調度品を丹念に作り上げていく。すでに、25-30章において作業工程が明らかにされているが、ここでは、実際の作業手順が記録されている。だから、幕屋の後に、契約の箱(1-9節)、机(10-16節)、燭台(17-24節)、そして香壇(25-20節)もまとめて、それらが神に命じられたとおり、忠実に、過不足なく作り上げられていった確認となっている。単なる再述ではない。
(1)契約の箱(37:1-9)
契約の箱は、「主の箱」(ヨシュア3:13)、「神の箱」(1サムエル3:3)、「主の契約の箱」(申命10:8)、「神の契約の箱」(士師20:27)、「あかしの箱」(出エジプト30:6)とも呼ばれた。材料は、アカシヤ材で、長さ2キュビト半(約1.11m)、幅と高さ1キュビト半(約67cm)の寸法であった。箱は内側も外側も、また箱のまわりの飾り縁も、四隅の基部に取り付けられた運搬用の棒を差し込む二つの環も金で覆われた。さらに箱の蓋となる「宥めの蓋」も純金で作られ「贖いのふた」と呼ばれた。その両端に、互いに向き合って顔が「宥めの蓋」に向かうように2つの金のケルビムが作られた。これが「契約の箱」と呼ばれたのは、そこに主とイスラエルとの契約の基礎となる神の十のことば(十戒)を刻んだ、2枚の石の板が納められたからである。
しかしながら、契約の箱の意義は、「宥めの蓋」のケルビムと共に、幕屋の至聖所に置かれたことであろう。ケルビムは神の臨在の象徴であり、契約の箱の置かれた至聖所は、イスラエルの神である主が御自身のしもべにみこころを啓示される会見の場であった。この契約の箱は、BC586年、バビロン軍によってエルサレムが破壊された時に失われ、バビロン捕囚帰還後に再建された第2神殿にも存在しなかったので、今や永遠に失われたと思われるものであるが、キリスト者にとっては、神の国が完成する栄光の終末の時、再び見ることのできる希望のあるものである(黙11:19)。
(2)アカシヤ材の机(37:10-16)
アカシヤ材の机は、ささげ物、つまり供えのパンを置くためのものであり、パン種の入らない平たいパンを12個作り、6個ずつ2並びにして供える。それらはもっぱら陳列のためで、祭司だけが食べることができるものとして用意され、毎朝焼き立てものが置かれ、夕方には下げられた。おそらくその象徴的な意味は、パンの数はイスラエルの12部族を表し、彼らの日ごとの糧は、神から来るという感謝のしるしであった。週1回、安息日ごとに新しく供えられた。
(3)燭台(37:17-24)
 ベツァルエルが作った純金の燭台は、メノーラーとも呼ばれる。七枝の燭代は、現在のイスラエルの国家紋章やお金(10アゴロットコイン)にも使われている。台座と支柱があり、その支柱から六つの枝が三つずつ左右に突き出て、支柱と六枝の上にともしび皿が載せられ、アーモンドの花の形をした節と花弁のあるがくの模様がつけられていた。メノーラーは、ユダヤ人の信仰と希望の象徴である。実際金の燭台は、黙示録では、主なる神の臨在、教会、忠実な証人の象徴とされる。そう言えば、エルサレムを旅した際に、神殿の丘、岩のドームに近い場所で、ガラス張りの囲いの中に大きな金のメノーラーが輝いていたことを思い出す。イエスは、「あなたがたは世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上におきます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなた方の光を人々の前で輝かせ、人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:14-16)と語っている。私たち自身がメノーラーであり、私たちの教会がメノーラーなのであり、世界の希望、光となる、という単純な事実に心を留めなくてはならない。
 ただ、自分が世界に希望を与えるメノーラーであると考えたとしても、それが鼻持ちにならない使命感を持つようではいけない。しばしば人間は愚かしくも自分の使命感を過剰に募り、勘違いもよい行動をとってしまうことがあるものだろう。メノーラーは、ただ存在することによって光輝く。神が用いられる人も、ありのままの自分を通して神の御業を現す人である。背伸びをするのでも、踏ん張るのでもなく、只その場にあることで用いられていく。
 そういう意味で、私たちは世界の希望ではあるが、静かな希望であり、穏やかな光である。気がつけばある希望であり、光である。神の臨在の象徴とも言われるように、派手なものでも、騒々しいものでもなく、いつも空気のように側に寄り添う希望である。
 燭台には、アーモンド花の形をした節と花弁のあるがくがつけられた。アーモンドはあめんどうとも呼ばれるが、その花は桜によく似ている。事実桜と同じバラ科サクラ族の落葉高木であり、薄いピンクがかった五枚の花弁を見て、サクラと見間違える人も多い。桜よりも一足先に、2月頃に満開となる。冬の荒涼と枯れ果てた風景に一足先に命を芽生えさせる、そんな花である。かつて、預言者エレミヤが神の召しを受けた時、エレミヤは、荒涼とした荒野に咲き乱れるアーモンドの花を見ていた。世俗化し、神を認めず、神に背を向けていくこの世は、荒涼した荒野そのものであろう。そこに満開に咲き誇るサクラに似た花。こんなことが起こるならば、死せるこの世にも、神の業が起こる希望を抱くことができるかもしれない。望み得ないところに望みを抱かせるのがアーモンドの花の意味である。荒涼としたこの世の社会に、満開の桜の花のごとく心に染みる歩みを、静かにさせていただきたいものだ。
(4)香の壇(37:25-29)
なお、香の壇は、イスラエルの民が礼拝において用いた香をたく壇である。毎日朝夕、祭司が香りの高い香をこの上で炊いた。また罪のきよめのささげ物を大祭司あるいは全会衆のためにささげる時は、その血を香の壇の角に塗った。つまりそれは、祈りととりなしの象徴である。実に、装具には、それぞれの意味があり、また、全体として一つとして調和した。メノーラのような証には、まさに、祈りととりなしが結び合わされなければならないように。

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