出エジプト記38章

1.祭壇、洗盤、庭(38:1-23)
 続けて幕屋の調度類が造られたことの報告である。27章において神が命じられたことは、「作る」ということであった。それらの意義などについては、27章の解説を参照されたい。
さてそれが神の御命令どおりに「作った」と記録されている。読み比べると多少表現の違いはあるが、判を押したように、作るべきものが作られたことが忠実に報告されている。実に、信仰の歩みというのは、そういうものではないか。聖日を守りなさいと神に命じられる。それを忠実に守った。そして守ったことを神に報告する。朝ごとにいけにえをささげよと神に命じられる。そして朝ごとにこれを行い、報告する。信仰の歩みというのは、そのように神のことばに判を押したように従う地味な営みであるが、そのような部分に、意義を感じていたり、そのような部分が人の信仰を大きく成熟させると理解している人は少ないように思う。22節、「ベツァルエルは、主がモーセに命じられたことを、ことごとく行った。」という、まず朝ごとに神のみこころを探り、夕ごとに一日の働きを神に報告する、そんな歩みを重ねたいところである。
2.聖所設営のコスト(38:24-31)
24節からは奉献物に用いられた金の総量が記録される。用いられた金の総量は、29タラントと730シェケル。1タラントは約34キログラムであり、1シェケルは11.4グラムであるから、合計約950キログラム、ほとんど1トン近い量になる。銀は、合計100タラント1775シェケル。約3400キログラムである。大切なのは、これらが、ひとり当たり1ベカ、つまり聖所のシェケルの半シェケルであって、すべて20歳以上の登録された者たちから集められたという形で記録されている点ではないだろうか(26節)。実に、誰かが寄進したわけではない。まるで皆が平等に献げたものの総数であるかのように記されている。それによって幕屋が建ったと。教会を建て上げるということも実にそういうことなのであろう。誰か力のある人が献げればよい、という問題ではない。皆で力を合わせて建てあげていくものなのである。
銀の台座は100を必要とし、100の台座に用いた銀は100タラント、1個の台座に1タラント用いられた。1タラントで1個の台座、だから100の台座を揃えて、幕屋の働きを進めていくには、100タラント必要だということになる。そういう意味では、1タラントで何ができるのか、と傍観者を決め込んでしまったら、100個の台座を用意することはできない。1タラントでは生かされないことも、100タラント集まったら、ちゃんと用をなすことがあるだろう。だから逆に自分は10タラント与えられているからと言っても、100個の台座は作れない。やはり、他の者の協力を必要とするのである。多く与えられた者も少なく与えられた者も、共に力を合わせて、神の示しに応じて、そのタラントを生かせば、教会は建てあがっていく。日本宣教の1%の壁を破る力は、私たち一人一人が少ないタラントと多くのタラントをどのように生かすかにかかっているのではないだろうか。
 ただ繰り返しになるかもしれないが、材料と同時に大切なのは、神の命令である。自己流に自分が良いと思うことをめいめい勝手に行うのではなく、神の設計に従って、協力し合いながら自分を生かしていくことが大切なのだ。そういう意味ではもっともっと私たちは教会の働きに関心を持たなければならないだろう。聖書を読みながら、教会がどうあるべきか、教会をどのように成長させていくべきなのか、そして自分が全体の中でどのような役割を果たすべきなのか、何をどこまでささげたらよいのか、そうしたことを考えながら、誠実に関わって行くことである。そして判を押したように、神に命じられたとおりにしました、と神に報告する一日を持つことだろう。ただ出席する、自分の席を守るということ自体が賜物を生かすことがある。礼拝に集うということ自体が、教会の士気を高め、牧師や他の信徒を励ますものである。しかしそれ以上にできる賜物を与えられている人もあろう。皆が力を合わせて教会を建てていく。そんな意識をしっかり持たせていただこう。

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