1.有り余る調達(36:1-7)
神の命じられた幕屋建設が開始された。選ばれた工匠たちが、幕屋建設のための材料の寄進を受けている。それは自発的なささげものとして集められ、「朝ごとに、進んでささげる」ささげものとなった、とされる。その量はあまりにも多く、工事をする者たちが、もはや聖所のためのささげ物は不要である、と言うほどであった。そこで工匠たちは言った。「主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです」(5節)と。工匠たちはこれ以上、ささげ物を持って来ないようにと、他の会衆を思いとどまらせなければならなかった。それほど民は気前よく反応したのである。彼らが何に反応したのかに注目すべきであろう。
それは、神の誠実さに対してである。というのも、神はご自分の民が逆らい、神を捨てたにもかかわらず、なおも、契約の故にその民の中に住もうとされた。金の子牛を造り偶像を崇拝した事件はもう忘れ去られていた。人を愛するとは、人のした悪を忘れることだ、と言われるが、まさに神はイスラエルのした悪を忘れ去ってくださっている。そのような神の愛に守られてこそ、イスラエルの民は、神の選びの民として歩むことができた。彼らは幕屋建設の祝福に与り、幕屋を建てることを許されている。彼らがいかに気前よく、神の言葉に反応したのか、それは、神の愛の故である。それは、ベタニヤにおけるマリヤの香油注ぎ(マタイ26:7)、ピリピ教会の気前のよいささげ物(ピリピ4:14-19)を思い起こさせる。
2.幕屋の建設(36:6-38)
ところで、溢れるほどのささげ物がなされる時に、人は、必ずしもこのようにいうわけではないだろう。そこで、もっと、という貪欲さを出してしまうものではないか。これだけあれば、もっと立派なものを造れる。もう少し大きいものを造れる。そんな発想になりやすい。しかし、彼らは、すべて主がせよと命じられた仕事に意を注いだ。彼らは神の誠実さに対して、誠実をもって応えたのである。主がせよと命じられたことから右にも左にもそれない。主がせよと命じられた以上のことができるとなっても、主がせよと命じられたことに敢えて踏みとどまったのである。後半の単調な記述、つまり、39章にいたる、時制と人称が変更されただけの25章から35章までの繰り返しのような記述は、彼らが主の命じられた以上でも、以下でもなく、まさに、命じられたとおりにすべてを忠実に造ったことを強調するものであろう。
日本人の宗教観について、よく指摘されていることは、日本人は基本的に多神教的、混合信仰的であることだろう。様々な神を味方につけて、日本教とも言うべき独特の宗教観の中で生きていく傾向がある。純粋な仏教徒も、純粋な神道教徒もなく、仏壇と神棚が一緒に置かれるように、仏教も神道も巧みに融合して生活の中に溶け込ませてしまう。これは、キリスト教についても同じである。つまり純粋な聖書信仰に意を注ぐ人は少ない。むしろ、聖書を離れて、その時々の教会の動き、勢いに乗っかっていくことをよしとしたりする。しかしキリスト教の歴史も、本流にあることが必ずしも正しいことではなかったことを教えている。大切なのは、いつも、聖書が何と語っているか、というところに立っていくことなのだろう。主が命じられたことを離れて物事をしていくのが、私たちの問題であるが、主が命じられたことを忠実に行う、それが信仰の基本である。
興味深いことに、聖書は、「心に知恵ある者は皆」と語っている。単に知恵ある者ではない。心に知恵ある者という言い方に注目させられる。別訳では「名人」「熟練者」となっている。神の働きに携わるにあたり、やはり十分訓練されていることが大事なのであり、それは、神の言葉に対する忠実さにおいて熟練している、ということである。そういう意味で、キリスト者としてまず何よりも、神のことばに耳を傾けることに熟練したいものである。朝毎に、個人的に神のことばに耳を傾け、週毎に、公に礼拝の中で神のことばに耳を傾けることは基本である。神のことばの標準に自分の心を合わせ、神と歩調を合わせた忠実な歩みを心がけたい。