「私は主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった」(3節)。これまで、創世記において、神はその大能の力を豊かに示されるお方としてご自身を証ししてきた。出エジプト記においては、万物の主であることを強調している。実際、エジプトの神々も、カナンの神々も、皆無に等しい偶像に過ぎず、この地に唯一の主である神をおいて他に神はないことを、イスラエルはエジプトの脱出劇によって知って行くのである。
また、神はご自身を契約に忠実な神として証しされる。かつて400年も前に約束されたことを神は覚えておられた。いや覚え続けていると言うのは、ありうることだろうが、私たちの神は、それを忘れず、その実現のためにもう一度力を注ぎだす誠実なお方である。人間の社会では、何年も年月が経てば、かつての約束を思い起こしながらも、もう時も状況も変わり、それは昔の話となってしまうことはよくあることだが、神は、一度約束されたことにおいて、時が移り変わり、状況も変わることがあってお、それをもはや反故になさることはない。約束を約束として守りぬき、そのためには、一つの国を揺るがすお方でもある。
さらに神はご自身を贖う方であるとされる。「贖う」とは、「失われたものを代価を払って取り戻す」ことを意味する。ここでは、エジプトの奴隷とされ失われていたイスラエル人が買い戻されることを言っているが、それは、聖書の全体的な流れで見ていけば、アダムの罪によって失われた人類が、イエス・キリストの尊い命の代価によって買い戻されることを象徴している。ただイエスは、贖いの業を行うにあたって、自らの命を差し出す以外に何も持ちえないお方であった。刑場に向かうビアドロローサ(悲しみの道)を歩ききるという苦痛を、そして十字架の磔の苦難と精神的疲弊を味わうことが、彼の贖いの業であった。つまり、お金ではなく、体と命で贖う、神は最も高価な贖いの業をなしてくださったのである。それだけ、神は私たちを尊く見積もっていることを意味するに他ならない。
もう、何十年も昔の話だが、祖父が、私の人生に行き詰まり悩んでいた母を案じて、わざわざ郷里から牧師を送ってくれたことがあった。蒸気機関車の時代、約6時間はかかったであろうか。悩む母に、キリスト教の救いをと願ったようである。訪れた若い牧師は顔色が悪く、どうやら生活も楽ではなかったようだった。薄っぺらな財布を取り出し、お金を叩いて、タクシーで近くの教会まで連れて行ってくれたという。幼い私も母と一緒に連れられて教会へ行った記憶がある。ただ、母にしてみれば、その時はどんなによい話でも、悩みが深くて受け入れられる話ではなかった。だから、「神様がいるんだったらなぜ私はこんなに不幸なんだ」とその教会の牧師に食って掛かり、せっかくの機会であったのに、教会へ続けていくことはなかった。それから数年後、母は、もし自分を救える人がいるとしたら、それはもはや神以外になし、とまさにどん底に堕ちていることを悟るようになるのであるが、その時、既に癌で亡くなった祖母の、死の間際まで床の上で自分の子どもたちの救いを祈った祈りの姿を思い出したという。祖母の神に信頼する祈りの姿を思い出し、教会へ行こう、そこに救いがあるかもしれない、と母は再び近くの教会の門を叩いて、結果的に信仰を持つに至った。
だから「失意と激しい労働のために、モーセのいうことを聞くことができなかった」(9節)というイスラエルの民の気持ちは良く理解されることである。一方、牧師として、「イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか」(10節)というモーセの困り果てた気持ちも良く理解される。世の中はいかんともし難い捻じれたことが多いものだ。そういう中にいると、自分自身も愚かになり、捻じれてくるところがある。人間として一番悲しいことではあるが人間は弱い者である。けれども、そういう中で、直ぐに人間らしく生きたいと願う気持ちがあるならば、やはり神に希望を抱く他はない。そして神ご自身も、最も落胆し、神に助けを求めるモーセに、族長の体験したことがモーセにも起こること、つまり族長が共に生きた全能の神はモーセの神でもあることを確信させようとするのである。人間的に自分自身を救おうとせず、神に信頼する。神の救いを徹底して待つ。神は万軍の主であるという信仰を堅くして、神にこそ望みを置くことである。