31章 ミディアン人との戦い,戦勝の献げ物
1.ミディアン人への復讐(31:1-12)
新しい地に入る前に、彼らはミディアン人と闘わなくてはなりませんでした。その理由は、25:16-18に示されています。それは偶像崇拝に誘い込んだミディアン人に対する神の報復でした。つまり、文脈的には25章からこの31章に繋がっていて、26-30章はいわば挿入です。しかしそれは脈絡のない挿入ではありません。というのも、新しい行軍に向かう前に、戦力を知る人口調査(26章)、占領地の分配計画(27章)、そして占領地での新しいライフスタイル(28,29章)、戦争にありがちな軽率な誓願についての警告(30章)、とすべて戦争が本格的に始まる前に、押さえておかなければならない事柄でした。
ミディアン人は、イシュマエル人、モアブ人、アマレク人、エファ人などの様々な小グループからなる一大部族連合です。彼らは、シナイ、ネゲブ、トランス・ヨルダンの一帯に出没した遊牧民でした。モーセは、このミディアン人を攻めるために各部族から1,000人、合計12,000人の兵士を募りました。一つ注目されることは、彼らが、ミディアン人連合の五人の王に加え、ベオルの子バラムを殺したと報告する点です(31:8)。なぜバラムが出てくるのか。バラムは、バラクとの出来事の後、自分の国に戻ったはずでした(24:25)。しかし、帰っていなかったのでしょう。バラムは新約聖書では「不義の報酬を愛した」者と評価されていますが(2ペテロ2:15)、この時バラムは、バラクの提供した報酬に味をしめて、さらに報酬を求めて、ミディアン人にまとわりついていたのかもしれません。そうであるとすれば彼は予想外の戦争に巻き込まれ、富ではなく死の報酬を受けたことになります。パウロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」(1テモテ6:10)と語りましたが、欲深な心は破滅をもたらします。まさに「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」(マルコ8:36)とイエスが言ったとおりでしょう。
2.分捕り物の取り扱いと分配原則(31:13-54)
さて、ミディアン人への戦勝を踏まえて、戦果をどうすべきか、また原則的なことが語られます。まず分捕ったものは、戦いに参加した戦士たちと後方に留まった者たちとで平等に二分する、とします。後にダビデはこの原則に従って戦利品を分けています(1サムエル30:24-25)。また、戦士たちは自分たちの分け前から500分の1を主への奉納物として、祭司エルアザルに渡しています。最後に、後方に留まった者たちはそのわけ前の50分の1を主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えます。これは、計算上、それぞれ十分の一献金の比率に相当すると言われます(18:26)。またこの戦争によって死に触れた者のきよめの儀式を行うことが命じられます(19-24節)。
しかし、このリスト、正直言って、気が滅入るような思いもします。特に動物ではなく、女性を分けたというのはなんだろうかという気もします。おそらく主のみつぎものとされて、祭司に渡された女性は、女奴隷とされたか、規定の値積もりに従って売られた、と考えられていますが、こうしたことを愛だ、正義だと言う神が、本当に命じられるのだろうか、と思うところです。
ただ、このように分捕り物を持ってきたイスラエル人に対して、モーセが激怒していることに注目すべきでしょう(14節)。イスラエルの戦争は、聖絶が原則です(21:3、35)。そしてこの戦争は、「ミディアン人に主の復讐をする」ためのものでした。つまり神罰によって、24,000人のイスラエル人が死ぬという悲しい結末をもたらした、ミディアン人の偶像崇拝への誘惑に対する報復措置でした。神の報復の戦いだったのですから、戦利品があるとすればそれは神のもので、神に献げる、つまり聖絶しなくてはならなかったのです。人は何一つ神のものに手を付けてはいけなかったのです。しかし、彼らは神に従わず、家畜や女たちを自分たちのものにしようと連れ戻りました。モーセが激怒したのは、そのためです。そしてそれが、このような生々しい殺戮と分配の結末になった、と言えるでしょう。人間の欲深な結果が、戦争をさらに悲劇的なものにしたというわけです。こうした戦争が正当化されるのかどうか、ということは、またもう少し読み進む中で見えてくることと思いますが、一先ずそこを保留にして信仰の姿勢として、教えられることは、私たちが罪深い思いを引きずりながら物事を進める時に、物事はますます複雑処理しがたいものとなるということです。かつて神のねたみを自分のねたみとしたピネハスがついていながらも、こうしたことが起こったということは、神に従うということがそれほど単純なものではないことを思わされるところですが、いつでも、自分の欲ではなく、神のみこころにこそ従ってまいりたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。軽々しく神に娘を献げる誓願をしてしまった例は、士師記のエフタがあげられます。では軽々しく物断ちをしてしまった例は、サムエル記から誰があげられるでしょうか?答えはサウルです。サウルは、ペリシテとの戦争の際に、軽々しく食物を断つ命令を出しています(1サムエル14:24)
では今日の聖書クイズを一つ。ミディアン人は、創世記ではしばしば別名何と呼ばれることがあったでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
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