申命記6章 シェマー
イスラエルでは、ユダヤ人が経営しているホテルには、必ず各部屋の入口に、メズーザーと呼ばれる小さな細長い小箱が取り付けられています。敬虔なユダヤ人は、出入りの度にこれに触れて口づけし祈ると言います。私も一つ土産に買いましたら、友人がその小箱の中に入れる小さな羊皮紙片を送ってくれました。開いてみると、そこには小さなヘブル語の文字で、この民数記6:4-9と11:13-21がびっしり書き込まれていました。
1.み教えを守る(6:1-10)
4節は、一般に「シェマー」と呼ばれ、敬虔なユダヤ人は、一日に幾度となく、この主の教えを繰り返し聞くことを務めとします。そこにはまず「主はただおひとりである」と述べられています。この世には多くの神々がいるようでありながら、拝すべき神、従うべき神はただお一人だということです。そして第二にその神を、「心をつくし、いのちを尽くし、力を尽くして」愛しなさい、と教えられます(5節)。イエスはこの教えを第一の大切な戒めとしました。神を信じるに終わらず、神を愛するのです。というのも神は人格的な存在で、私たちとの関わりの中で、悲しみもし、喜びもするお方です。そのような意味では、神をただ信じている信仰者と神を愛している信仰者ではそのあり方が異なっています。神を信じているだけの信仰者は、信仰の中心は自分であり、信仰は取引の手段でしかなかったりします。しかし神を愛している信仰者の中心は神であり、神の存在を喜び、神と共にあることを楽しみ、神と共に生きることを願います。ですから礼拝を守るのではなく、礼拝を献げるのです。献金を支払うのではなく、献金を献げる。神の言葉を学ぶのではなく、神の言葉を愛し、これに応じるのです(6節)。これが大事だと思うので、子どもにも伝えたいと思います(7節)。神と共にある祝福に勝るものはない、そのように考えるのです。
2.み教えを忘れない(6:10-19)
そこで、まず思い起こすべきことが数え上げられます。信仰においては、神が過去において示された哀れみと救いの行為を思い出すことが基本です。「私たちはエジプトでファラオの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから導き出された」(21節)。神が私たちにしてくださったことを忘れてはなりません。救いの証を大事にすることです。「自分が建てたのではない」(10節)、自分が「満たしたのではない」(11節)豊かな恵みを受けた経験を忘れてはいけないのです。それがあってこそ主のみ教えへの従順があり、信仰継承の思いがあるのです。
3.契約の信仰を伝える(6:20-25)
日本のようにキリスト教がマイノリティの世界では、毎週礼拝に通う敬虔な信仰を持った親の子どもは、いずれ、なぜ自分の親は、「宗教」に熱心なのか、と考えるようになることでしょう。そして自分たちが、他の子ども達とは違う特殊な環境にあることを感じるようになるものです。日本のように画一化された社会では、人それぞれに生き方がある、と思うことも難しく、他の子ども達とは違う人生を強いられる思いをする、子どももいたりするものでしょう。そうであればこそ、なぜ自分自身は神を信じたのか、神は、自分にどんなことをしてくれたのか、今ある生活の恵みは主のおかげであることを、よく語り伝えることが大事です。信仰の継承は、自らの経験に基づく、これが基本です。ただ同じ信仰に立つように教えるのではなくて、自らどのようにその信仰に導かれ、支えられ、また励まされて生きているかを、優しく語り伝えることでしょう。確かに人づくりは自分自身が持っているものの伝達です。そのようにして育てられた者がまた同じように育てていく力のある人になる。それは、「いつまでも私たちが幸せになり、私たちが生かされるためである」という目的にかなうものです。子々孫々の幸せを願い、主を恐れ、主を愛するように教えていきたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。神を愛し、神の命令を守る者には、恵みを何代にまで施すとあるでしょうか。答えは千代です(申命記5:10)。では今日の聖書クイズを一つ、今日、ユダヤ人が、門柱に取り付ける記章をメズーザーと言いますが、額に取り付けるものは何と言うでしょうか。答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
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