申命記 9章 イスラエルの背きの罪
1.イスラエルの義の結果ではなく、主の意志の結果である征服(1-6節)
イスラエルの民がカナンの地を所有できるのは、イスラエルの民が正しいからではなく、カナンを占領していた諸民族、たとえばアナク人が悪いためでした。2節、敵対者アナク人の強さが、大げさに描かれています。彼らの道徳的堕落のひどさは、レビ記18:2-23によっても伺い知ることができます。ですから主ご自身が「焼き尽くす火としてイスラエルの前を進み彼らを根絶やしにされる」のです(3-5節)。
そしてこのような祝福を与えられたイスラエルの民が、特別かと言えば、そうではありません。アナク人もイスラエル人も人間、同じ問題を抱えていたのです。6節、「うなじ」は、首の後ろ、襟首の部分を指す言葉です。イザヤ48:4では、「首筋」と訳されています。それを「固くする」とは、首を立て抵抗する牛のしぐさをイメージすることばで、神への不従順を言い表しているのです。確かに彼らは、出エジプト以来、主に逆らい通しでした(7節)。彼らが祝福されたのは、彼ら自身の正しさによらず、むしろ彼らに対する神の愛と先祖たちに対する誓いのためなのです(5節)。
2.イスラエルのかたくなさ(9:7-24)
7節以降、神に逆らい通しであった過去を振り返るものです。ホレブ(金の子牛の出来事:8-21節)、タブエラ(民数11:1-3)、マサ(民数6:16)、キブロテ・ハタアワ(民数記11:4-34)とカデシュ・バルネア(民数13:25-14:12)での事件(22-23節)が簡潔に語られています。先の5:15では、神が力強い御手をもって自分たちをエジプトから救い出してくださった、神の恵みを覚えているように命じられていましたが、ここでは、荒野において自分たちが、その神に逆らい通しであった事実をも覚えているように語られています。それは、このように不従順であったにも関わらず、なおも命を取り去られずにいることの意味を、彼らが知るようになるためでした(10:12,13)。
また回顧の中で、モーセのとりなし(18-20節、25-29節)はイスラエルの反抗(7-17節、21-24節)と対照的に描かれています。実際申命記においては、モーセの仲介者としての役割が強く意識され、強調されています。モーセのアロンのためのとりなしも、申命記独自のもので、出エジプト記、民数記には記録されていません。そしてこれらの記事によって強調されているのは、イスラエルに対する主の愛と憐れみなのです。
3.モーセによるとりなしの祈りのことば(25-29節)
モーセの仲介者としての労が語られます。モーセのとりなしと神の忍耐がなければ、イスラエルはホレブで滅びていたでしょう。悲しいことにイスラエルは強情でした。彼らが存続するためには、神の継続的な忍耐とモーセの繰り返されるとりなしを必要としました。そして、さらに、モーセは知恵ある交渉人でもあったのです。
彼はとりなしのために、常に、先祖アブラハム、イサク、ヤコブにお誓になった約束を取り上げるのです。神は約束をしたものの、それは口先だけだった、と言われてよいのか、ととりなします。確かに約束の地にイスラエルの民を連れていくと言いながら、その目的を達成できないなら、人々は神の力に限界があると考えて、神を恐れなくなるでしょう。また呪いと祝福という契約の賞罰も侮られてしまうことでしょう。こうして、とりなし手としてのモーセの役割が注目されます。モーセは、イスラエルのために多岐にわたり、偉大な働きをしましたが、何よりもとりなし手としての働きに卓越していました。実際、モーセの自己を無にしたとりなしと、徹底して神の真実に訴え、神の約束の履行を願うその姿に、神のあわれみと忍耐も注がれたのです。モーセのように、忠実な神の仲介者となる働き人が、今の時代こそ必要なのでしょう。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「人はパンだけで生きるのではなく」をイエスは引用されて説教をされていますが、それは、新約聖書のどこに書かれたことばでしょうか。答えはマタイ4:4、ルカ4:4、荒野の悪魔の誘惑において、語られたことばです。では今日のクイズを一つ、イスラエル人が荒野で拝んだ金の子牛が再び、イスラエルの歴史の中で礼拝の対象とされたのは、どの王様の時代であったでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
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