1章 エゼキエルの召命(1:1-3:27)
おはようございます。今の時代、ペンテコステは起こらずとも、ペンテコステ的経験は起こりうる、と私は信じます。栄光の主の臨在に触れる、実に素晴らしい時が必要です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.預言者エゼキエル
BC597 年バビロンに征服されたイスラエルから、約1万人の人たちが捕虜として、バビロンに連れ去られました(2列王記24:11-18)。その中に、先のエレミヤとほぼ同時代の人で、20代半ばの青年エゼキエルがいました。彼は祭司系家族の出身です。エレミヤは捕虜として連れ去られたところ、途中で解放され、エルサレムに残って預言活動を継続しましたが、エゼキエルはバビロンに連れ去られ、ケバル川のほとりのテル・アビブに住むようになりました。そして彼が30歳の時、つまりBC593年に、神の召しを受けて預言者として活動するようになったのです。「第30年」は彼の年齢と考えられます。エゼキエルは、捕囚の民に向けて、神が再び新しいイスラエルを興そうとしておられることを語り伝えます。しかし、既にバビロン捕囚から5年、彼が預言活動を始めるには、それなりのパワーを必要としたことでしょう。
それがこのエゼキエル召命の記事であったと読むなら、1章の不可解な幻も、素直に読んでいくことができます。確かに、エゼキエル書は、ダニエル書、ゼカリヤ書とともに、黙示文学的な性格を持っていると言われ、象徴的な記述が多く難解です。けれども、この章に学術的な特徴を見出し理解しても、あまり意味はありません。むしろ、捕囚の地に落ち着き始めたエゼキエルと捕囚の民を突き動かすには、それなりの神のパフォーマンスがあった、と理解すべきでしょう。それは、イエスの弟子たちが、ペンテコステの脅威的な出来事によって、宣教の使命に押し出されたのと同じです(使徒2章)。
2.エゼキエルの幻
まずエゼキエルが見た幻は,北からの「激しい風」(4節)から始まっています。なぜ激しい風とともに大きな雲と火が「北」から来たのか、それは、エルサレムに対する裁きがバビロン、つまり北方からやって来たことを意味しており、バビロンを送られたのは神ご自身でした。実際、「火の中央には琥珀のようなきらめきが出ていた」(4節)の「琥珀」は、ヘブル語でハシャマール、それは「ある種の輝く金属」を意味します。つまり目もくらむばかりの輝き、主の威光を象徴しているのです。
また、5-12節の四つの生きものは、10章で再び語られるように、ケルビム、いわば天使的な生きものであり、創世記では、いのちの木への道を守るためにエデンの園の東に置かれています(創世記3:24)。後にヨハネは黙示録に、このイメージを取り上げて、御座を守る象徴的な存在としています(黙示録4章)。実際、ヨハネが描く情景とエゼキエルが描くそれは重なり、まさに二人は神を仰いでいることがわかります(26、28節)。
古代において、国の滅びは、その守護神の敗北を意味しました。もはやイスラエルの神も地に落ちたと言うわけです。しかし、エゼキエルは敗戦と捕囚の現実の中で、自分たちの神がなおも健在しておられること、大空のはるか上方の王座に着いておられることを見せられています。イスラエルは負けても、イスラエルの神はそうではない。それは激しい迫害の最中で、キリスト教会が風前の灯となりながらも、ヨハネが神の栄光を天に仰ぎ、キリスト者を励まし続けたのと同じです。
この世を支配し、大空の遥か彼方の王座に着いておられる栄光の主の臨在に触れる時、主とその救いの計画が力強く証されることになります。モーセ然り、エレミヤ然り、イザヤ然り、ペンテコステ然り、ヨハネ然りです。神とよき時を過ごそうとするならば、まさにこの主の臨在に触れることを願うことです。朝毎の真剣勝負を大事にしたいところです。