30章 誓願についての定め
伝道者の書には「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。」(伝道者の書5:4)と語られています。クェーカーの格言には、「意思したことについては、人は主人でありえる。語ったことについてはしもべとなる。書いたことについては奴隷となる」とあるそうです。人はしばしば誓願や物断ちをします。しかし、誓願をするほどの危機的状況が過ぎてしまうと、それを忘れてしまうのです。誓願を果たすことができなかった場合に、どうすべきか、ここでは、いくつかの注目されるべきケースを取り上げて、その原則が語られています。
1.男性の誓願(1-2節)
まず、男性が誓願をした場合、男性は神に対してだけ責任を負うのですから、神に誓願をした以上その責任は負わなくてはなりません(2節)。
2.女性の請願(3-15節)
しかし、家族の一員である女性の場合、つまり、未婚の女性の場合(3-5節)と結婚した女性の場合(6-8、10-15節)二つのケースがあると思われますが、その場合、父親もしくは夫がその誓願に反対するなら、その誓願について責任はありません。しかし本来は、父親もしくは夫のことを考えた上で誓願をすべきだ、ということになります。一方、父または夫がその女性の誓願を聞いて反対することもなかったとしたら、その責任を問われるのは、その女性ではなく、父または夫です(14、15節)。家族と同居している女性たちは、家長の明確な監督下に置かれたわけです。ですからやもめや離婚されて一人で暮らしている女性の場合は、男性同様に、誓願したことについての責任を自ら負わなくてはなりませんでした(9節)。もちろん、独り身だとしても関係する人々がいないというわけではないでしょうから、自分が置かれた立場や状況を熟慮して行うべきことは、言うまでもありません。
3.30章の位置づけ(30:16)
しかし、なぜこんなことが教えられなければならなかったのか。当時の状況について言えば、誓願は、しばしば有事の際になされました。確かに、イスラエルは、これからカナンの地を占領する戦争を起こそうとしていました。この間、ヨルダン側に残された妻や娘たちが、夫や父の帰りを待っている間に、「もし夫や父が無事帰ったなら~」などという誓願を立てる問題が頻発したのでしょう。実際この章では、まだ婚約していないおとめ(3-8節)、やもめ(9節)、妻(10-15節)と、婦人の誓願が主となっています。古い世代には、ナジル人の誓願が教えられましたが(民数6章)、新しい世代には、状況的に一般人の誓願が教えられる必要がありました。そして、誓願は、普通宮参りをして、ささげ物を献げる時になされるものです。となれば、こうした行為が一番起こりやすいのは、28-29章で取り上げられたささげ物を献げる機会というべきで、文脈的にもちょうどよいところに加えられて説明されている、と見るべきでしょう。
今の日本では、戦争という危機的状況はありませんが、それでも、神々に誓願や物断ちをすることは起こりえます。お受験や昇進などの時には、そんな宮もうでがありうるでしょう。しかし、それで誓願したものの、うまく合格してしまえば、誓願を忘れる、あるいは、不合格になれば、それまで信心深くもなかった人が、神々の無能ぶりを呪い、なじる、結果信仰を卑しめることがあるものではないでしょうか。
4.誓願の考え方
誓願は、人に対するものではなく、神に対するものです。それには、二種類あって、一つは、何かを自ら進んで主に献げるものがあります(士師11:30,31)。また、ある一定期間何もしない、口にしないといった「物断ち」や自制の形のものがあります(1サムエル14:24)。こうした神に対する誓願は、かなり思い切った形でなされるために、無思慮に行うことで、結果的に、家庭に波風を起こし、家族の生活を危機にさらすことがあります。そのような問題にあらかじめ、警告と思慮ある行動を促したのが、この章の意味です。神は人に無謀な要求をすることはありませんし、そもそも誓願や物断ちをする一人の人間を中心に世界が動いているわけでもありません。神に自分の何かと引き換えに無謀な要求をすることも誤りです。神は、人が軽々しく誓願をして一時の熱心さを保ち、信仰を卑しいものにするよりも、ただ神のみ言葉に日々、当たり前のごとく忠実に淡々と生きる熱心さをこそ期待しておられるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。仮庵の祭りの時期に収穫されるものは、次のどれになるでしょうか?①大麦、②小麦、③ぶどう。答えは③ぶどうでした。種なしパンの祝福は大麦の収穫、仮庵の祭りはぶどう、その他の野生の果実の収穫と関係があります。では今日の聖書クイズを一つ。軽々しく神に娘を献げる誓願をしてしまった例は、士師記のエフタがあげられます。では軽々しく物断ちをしてしまった例は、サムエル記から誰があげられるでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
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