ヨシュア記4章 主の手が強いことを知るため

ヨシュア記4章 十二の記念石(永久に記念となる)

1.永久に記念となる(4:1-14)

イスラエルの民がすべてヨルダン川を渡り終わった時、神はヨシュアに命じられました。乾いた川底から十二の石を取り、それを宿営地に据えて、永久の記念とするように、と。興味深いことに、ヨシュアはその命令に、「あらかじめ用意しておいた十二人の者(3:12)を召し出し」応じています。そしてそれを今実行するのだ、と語るのです(4:2、3)。つまり神のみこころは一度にすべて明らかにされるわけではありません。常に共におられる神と、共にある心がけの中で明らかにされていくものでしょう。主は、ヨシュアと共におられたと言いますが、こうしてヨシュアもまた神と共にありました。しっかり神に寄り添い、神の心を我が心として歩み、いつでも神に語られたことを実行する姿勢が大切です。

さて、ヨルダン川の渡渉によって、イスラエルの民は、もはや後戻りできない歩みへと入っていきました。実際、ヨルダン川の水は、以前のように、川岸いっぱいに満ちて濁流と化し、彼らはもはや引き返すことができませんでした。それは新しい出エジプトというべき出来事、私たちも神の招きに応じて踏み出す時に、決して逆戻りのできない、神の力によって引き出され、ただ前進するのみの、新しい歩みへと入っていくのです。

だからこそ、それは、しるしとして記憶に留められるようにしなくてはなりません。その出来事を知らない人たちに、神がこのようなことをしてくださった。神がこのようにして、新しい人生の一ページを開いてくださった、と伝えられるようにしなくてはならない、ということです。彼らはそれを自分たちが実際に足で踏んだ、ヨルダン川の底の十二の石重ねてモニュメントとすることで行ったのです。それは、単に現在の世代の経験というだけではなく、イスラエルの将来の者たちに対する証しであり、励ましでした。

2.主を恐れるため(4:15-24)

この出来事によって、モーセの後継者としてのヨシュアの権威は確立され、全イスラエルは、神がヨシュアを大いなる者にされたことを確認しています。ヨシュアと共に神がおられることを覚えて、神の民は恐れました。しかしヨシュアが、神の命に従って用意した石は、ヨシュア自身ではなく、神の業に注目させるものとなったのです。恐れるべきは、ヨシュアではなく神でした。イスラエルの民は、その石を指し示して、自分達の子孫に、神がヨルダン川の水をからし、乾いた地を渡らせた、その業を永久に語るように教えられたのです。かつての紅海渡渉のように、これは、「主の手の強いこと」を証し、主を恐れさせる(24節)信仰的な遺産だったのです。

私たちにも、この石は何ですか?と子どもに聞かれ、それについて説明できるものが必要なのでしょう。それは神が私をエジプトから連れ出し、後戻りのできない新しいカナンの地に導き入れてくださった、記念の石である、と語るものです。霊的な暗闇から光りの中に、肉に属することから御霊に属することをひたすら考える人生に導き入れてくださった記念の石、そんな石が必要です。

そのような意味で、教会は建たない、あるいは教会を建てることはできない、と言われたこの二子玉川の地に、30年間に、全くのゼロから教会をスタートさせ、教会が立ち上がり、さらにスタートから13年目に会堂を設けるに至ったことは、たとえそれが大したものではない、たとえて言えば、見栄えのしない川底の十二の石を積み重ねたようなものであったとしても、神が、働いてくださらなければ成し遂げえない出来事でした。そしてその13年目が新しい転機になったことも、確かなことでした。それは神が、私たちと共にあり、主の手は強いことを知る、いや子々孫々に語り伝えるべきしるしとなったのです。

 

<クイズコーナー>

最初に、昨日のクイズです。ヨルダン川の終点はどこになるでしょうか?①地中海、②死海、③紅海、答えは②死海です。では、今日の聖書クイズを一つ、ヨルダン川は、全長何キロに渡って流れる川でしょうか?①200キロ、②300キロ、③400キロ、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

 

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