士師記1章 ユダの征服
1.士師記の背景
今日から士師記に入ります。士師記は、モーセ、ヨシュアに継いでイスラエル全体を指揮する指導者なき時代の歴史です。モーセ、ヨシュアの時代、神は彼らを通してイスラエル全体に関わりをもたれました。しかし、その後、王制が確立していくまで、イスラエルには「士師」、もしくは「さばきつかさ」と呼ばれる指導者が起こり、部族ごとに統治される時代が続くのです。
2.イスラエルの征服の状況
1章は、ユダとシメオンの同盟軍による南カナンの征服(2-21節)、ヨセフの一族によるべテル奪回(22-26節)、そして中部北部に定住した部族がカナン人を追い払い得なかった村落のリスト(27-36節)となっています。2章以降は具体的な13人の士師たちによって、神に背くイスラエルが回復されていくエピソードです。
最初にアドニ・ベゼクのエピソード。ベゼクの王は捕らえられて手足の親指を切り取られました。親指が切り取られるというのは、モノをつまむ動作が難しくなることを意味します。となると武器は使えません。食事を始め、日常生活も極めて不自由になります。なんともむごい仕打ちだと思いますが、ベゼクは言うのです。「私がしたとおりに、神は私に報いられた」(7節)。どこかで人は、その罪深い行為を清算させられることになるのだな、と思わされるところです。ただこのエピソードで注意すべきことは、当時当たり前になされたことであっても、それを神の民が真似たところに、神の民の堕落があったのではないか、ということです。世俗社会の中では正当化されることが、すべて教会の中でも同じとは限りません。教会には教会の倫理、価値、考え方があります。教会の独自性というものがあるのです。しかし世俗の価値をそのまま教会に持ち込んで、世俗社会の延長になっている教会も多いのです。どんな価値を教会に持ち込んでいるのか、注意したいところでしょう。エジプトから脱出した神の民は、律法を与えられ、荒野に隔離され40年の教育を受け、当時の偶像崇拝と物質主義に満ちた異邦社会とは区別された価値と倫理に生きることを求められていました。罪の世から救い出された私たちも同じです。イエスが指示されたのは私たちが十字架愛に生きる共同体となることで、神のしもべはこの世の倫理を超えた、神の愛の倫理に生きる者なのです。
- 士師の時代の始まり
27節以降は、イスラエルの民が、追い払わなかったカナン人のリストです。後に彼らの足かせとなった存在でした。彼らは、モーセ(申命7章)とヨシュア(ヨシュア23章)の警告を聞き入れませんでした。「完全に追い払うことをしなかった」が繰り返されます。それが士師記の種々のエピソードの始まりです。「歴史から学ぶことは、人類が歴史に学ばないことである」と言われます。「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(ヨシュア23:11)とヨシュアは警告しましたが、彼らは、不注意と妥協の中に生きたのです。かつてであったら戦車を持つ敵であれ、城壁を持つ敵であれ、立ち向かっていったことでしょう。しかし今や彼らは共存の道を選びました。しかし、真に、自らの霊性を守り築き上げる歩みは妥協の中には生まれません。今日、主が、私たちに気づくべきことを気づかせてくださるように。この世の倫理、この世の考え方に流されず、それらを超えた聖書の考え方や価値に立つことができるように、祈り歩ませていただきましょう。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。イスラエルがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、約束の地カナンのどこに葬られたでしょうか?答えは、シェケムの地、つまりヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬られました。では、今日の聖書クイズを一つ、旧約時代、別名「なつめ椰子の町」と呼ばれたのは、どの町でしょうか。①ベテル、②エリコ、③シェケム、答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。
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