士師記2章 ヨシュアの死
1.徹底した占領が求められていた
モーセ、ヨシュアと続いた、勝利の時代は長く続きませんでした。イスラエルの民が与えられた約束の地は、占領すべき地でしたが、もはや彼らは、戦わずに共存することを求めるようになりました。そして彼らはカナンの地に住む人々の異教礼拝に影響されるようになりました。そのような彼らに主の使いが現れて「彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる」(3節)と宣告します。こうして約束の地カナンは、「敵と罠」に囲まれた試練の地と化していくのです。
問題は、神に対する不信仰、不従順でした。彼らは、申命記7:17、18で、モーセにこう語られていました。「あなたが、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができるだろうか」と考えるときにも、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がファラオに、また全エジプトになされたことをよく覚えていなければならない。」そして、さらにヨシュアには、「あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなさい(ヨシュア記23:5)。」と勧められていました。
大切なのは、彼らが神の存在とご計画を認め、それを成し遂げるように、神を信頼し、さらに進み続けるか否かでした。しかし、そうではなかったのです。それは一重に神を認め、神の御声に従う信仰がなかったためと言うべきでしょう。7節「ヨシュアがいた間、また主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きをした長老たちがいた間は、民は主に仕えた」(7節)とあります。民は、ヨシュアという指導者がいればこそ、また長老たちがいればこそ、信仰生活を続けていたのです。人によって支えられるような信仰では、決して神の大目的を果たすことはできません。
礼拝には参加する。奉仕もする。しかし、依然として神につながっていない信仰者である、ということはあるものです。その結果は、地域に影響を与えるビジョンなき教会、ただ交わりや、自己充足的な喜びや楽しみを求め、内輪受けするだけの教会です。
2.信仰の応答が全てである
2章6節から、士師記の大きな第二区分となります。いわゆるヨシュアの死後の歴史、さばきつかさと呼ばれる者たちによってイスラエルが統治された時代の歴史になります。
ヨシュアの死後、「主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった」(10節)とあります。興味深いことに、ヨシュア記24:31には「主がイスラエルに行われたすべてのわざを<経験した>長老たち」ということばは、士師記においては、「主がイスラエルに行われたすべての大いなるわざを<見た>長老たち」(7節)と言い換えられています。つまり「知る」ことは「経験」すること、「見る」ことと同じです。つまり主を知らない、主のわざも知らないというのは、実際何一つ神を体感的に知ることのない、ということです。ただ、神について聞かされているだけ、ただ本で読んで、頭で理解しているだけの世代です。いわゆる人を通して神を知っているだけの信仰者、というのはそういうものでしょう。
使徒ヨハネは、救い主イエスについて語ろうとしたときに、「私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」(ヨハネの手紙第一1:1)について証言しようとしました。私たちにとって極めて重要なのは、日々の生活の中で、実際に神の力を味わい、神の力によって生かされていること、神の恵み豊かさと神の業によって物事が進められることを経験することです。神は架空の存在ではありません。神に従い、神に与えられるチャレンジに出ていく歩みをさせていただきたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。旧約時代別名、「なつめ椰子の町」と呼ばれたのは、どの町でしょうか。①ベテル、②エリコ、③シェケム。答えは②エリコでした。では、今日の聖書クイズを一つ、古くは、ルズと呼ばれた町は、次のどれでしょうか?①ベテル、②ベテ・シェメシュ、③ベツレヘム、答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。
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