士師記3章 戦いを教え

士師記3章 士師オテニエル、エフデ、シャムガル、三様の戦い

1.次世代への試練

初期の士師オテニエル、エフデ、シャムガルの活躍が記録されています。「ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためであった」(2節)と言います。出エジプト後、新しい世代によって獲得された約束の地カナンは、既に、次の世代の所有となっていました。神はその新しい世代のために、異邦の民を残しておられたと言うのです。そして、「まだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせよう、とした」と言います。

興味深いのは、神が「戦いを教え、知らせよう、とした」と言うことです。先輩に後輩を教えさせる、親に子を教えさせる、というのではないのです。神がまだ戦いを知らない次世代の者に教え、知らせる、と言う。ということは、彼らに誰もそれを教えられる者がいなかった、ということでしょう。実際、彼らの親の世代は、ヨシュアや長老に従い、ヨシュアや長老がいなくなると、もはや、神に目を向けようとしなかったからです。彼らは、妥協の中にありました、戦いの必要を感じていなかったのです。そして、いつしか信仰相対化の中にあり、もはや、「もろもろのバアルやアシェラに仕え」(7節)ることも自然な日常風景となっていたのでした。

イスラエルの民に起こったことは、私たちにも起こりうることです。イエスの十字架にある罪の赦しを得て、神に救っていただいた、と言う恩義を忘れるなら、どの信仰もよしとし、イエスに対する信仰を捨てて、別の信仰を拝むことなど容易なことでしょう。

2.士師たちの戦い(オテニエル、エフデ、シャムガル)

12節、士師記の著者は、北方のクシャン・リシュアタイムでのオテニエルの活躍を述べた後、続いて南方のエフデの活躍を述べます。20節、エフデは、王にだまし討ちを仕掛けています。エグロンがイスラエルを侵略した時は、かつてイスラエルがヨルダン川を横断し、エリコを占領した時と同じ道を通ったとされています。つまりエグロンはイスラエルの手の内を知りつくしており、正攻法の使えない相手でした。エフデが騙し討ちを仕掛けたのは、そのような理由があったのではないか、とされています。

しばしば戦いに綺麗な戦い方などなく、ある意味で泥まみれになることもあるでしょう。だからこそ、私たちは戦うことを避けたく思ってしまうものです。そして聖書も、そのような戦い方を肯定しているわけではないはずです。しかし避けて通ることのできない戦いというものがあったりするものです。まともに戦って勝利しえないような相手の場合には、どうするのか、奇襲、夜襲、いかなる手であろうとも、自らの民族の自由を勝ち取るために、戦いに臨んだエフデの姿があります。後でそのやり方の汚さを批判することはいくらでもできることです。しかし、あなただったら、避けられない戦いをどうするのか、戦わずいつまでも日和見でいるのか、それとも戦うのか。31節シャムガルの戦いがわずか1行で記録されます。彼は牛を追う棒でペリシテ人600人を打ち殺したとあります。彼こそがまさに正攻法で、ただ一人で立ち向かった者と言うべきでしょう。無血開城という戦いの方法もあるはずです。問題は、戦い方を問わず、戦う者であるかどうかを探られるところです。では今日は、よき戦いを戦い抜く者であるように祈ります。

 

<クイズコーナー>

最初に、昨日のクイズです。古くは、ルズと呼ばれた町は、次のどれでしょうか?①ベテル、②ベテ・シェメシュ、③ベツレヘム、答えは、①ベテルでした。では、今日の聖書クイズを一つ、モアブはヨルダン川の東側を流れ、死海にそそぐ二つの川に挟まれた地域を指しますが、その二つの川は、アルノン川と何川でしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

 

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