創世記3章 人間の罪(神への背反)と結果,裁き
1.罪と死の起源(3:1-7)
フローレンス・ビヤバウトという聖書学者が、創世記について、簡単な概説書(『初めに神が』)を書いています。2時間もあれば読めるもので、創世記の概略を要領よく解説しています。そのビヤバウトは、この三章について「聖書全体の中でも最も重要な章の一つ」であると語りました。それは、この章を学ぶことで、人間がどのように神との霊的な関係を失い、神を認めることができなくなってしまったのかを知ることができるから、と言います。別の言い方をすれば使徒パウロが言う「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り」(ローマ5:12)という人間の罪と死の起源が語られているのです。
そもそもは、蛇の誘惑がすべての始まりでした。ビヤバウトは、先の書の中で、この蛇が、自分でやってきたのではなく、その背後にさらに悪い者(ヨハネ8:44、黙示12:9)がいたことを示唆しています。つまり「サタン」あるいは「悪魔」とも言われ、神から人間を引き離そうとする存在である。実際に蛇がしたことは、エバに神のことばを疑わせることでした。1節、「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」4節「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」蛇は、エバが神のことばを疑うように仕向け、エバはそれにまんまと引っ掛かったと言うべきでしょう。
ところで、この事件は、何の不足もない楽園で生じているところに注意すべきです。人は実にパーフェクトな環境に置かれていました。ところが、その楽園にあって人は罪を犯し、神の呪いを受けて追放されたのです。貧しさが人間をだめにしたわけではない。豊かさが人間の心に隙を与えてしまったのです。
賀川豊彦という昭和の社会運動家がいます。賀川は、戦後の社会改革に実に多大な貢献をし、労働者の生活改善にも尽力しました。それは、労働運動史の中でもよく知られています。そこで賀川は、非常に楽観的な発言をしています。つまり、人が悪いことをするのは、環境が悪いからで、環境をよくしてやれば、人はいい人間になる、と。実際賀川は、そのような信念に基づいて、敗戦後の日本で、実に精力的な社会運動を展開しました。そして今、賀川の名を知る者はほとんどいない時代となり、学校教育、医療保険、社会保障制度なども大きく発展しました。しかし未だに賀川が期待するような社会は実現していないようにも思います。社会は相変わらず賀川が嘆いた風俗、強盗、殺人などで呻いているのです。つまり人が置かれている環境は変わってきていても、人は相変わらずです。しかも、高度の教育を受けた、また富も地位もあるような人々が最悪の罪を犯し、その罪が野放しにされている現実すら私たちは見ているように思います。人は、エデンの園を追放された時から、少しも「進化」していない、と言うべきなのかもしれません。
2.アダムとエバの再出発(3:8-24)
人類が今日、呪われていると思われる環境に置かれているのは、すべて最初の人アダムとエバによる、というわけです。最初の人アダムとエバが特別に悪かったわけではありません。ですから、仮にこの私が最初の人であったとしても同じ結果をもたらしたことでしょう。つまり、すべての人が持つ、罪の性質が、世の中を混沌とした状況に追い込んだのであり、それは、かつても今も変わらない事実なのです。確かに、私も私の先祖も、悪いことは何ひとつしておらん、と言いきれる人など誰もいないことでしょう。
問題は人が自分の罪の現実に気づいた時に、どうするかです。多くの人は、自分の罪と向かい合おうとはしません。スピード違反の切符を切られて、警察は厳しいと腹を立てるようなもので、自分は運が悪くて摘発された程度の罪意識しかないでしょう。いや、人によってはアダムのように、悪いことをしたという意識に責められて、身を隠そうという人もいるでしょう。9節、神は、あなたはどこにいるのか」とアダムとエバに呼び掛け、探されました。もちろん、神は、叱り飛ばすためではなく、人の回復の道を共に見つけようと呼びかけられたのでした。アダムとエバは、自ら蒔いた種を自分で刈り取り始めていました。女は苦しんで子を産み育てること、さらに男との平和な関係も崩れたことに気づかされていきます。女は夫に支配される弱さを持つようになったのです。また、男は、耕す畑が自分の思い通りの実を結ばないことに気づくようになりました。神あっての守りと祝福の一切が崩れてしまったのです。神は自ら神の呪いを招く結果を生み出してしまい、戸惑うアダムとエバに、舌打ちをし、もう勝手にしたら、と見捨てるお方ではありませんでした。人は、失敗した者に手厳しいものですが、神は人とは違うのです。神は、アダムとエバに、やり直しのチャンスを与えた、新たな場所を変えて、というのが3章の語るところでしょう。実際神は、アダムとその妻の罪の結果を覆われるために、一匹の獣のいのちを犠牲にされました(21節)。これは、やがて新約聖書で語られる、人の罪の赦しのためになされたイエスの十字架の犠牲について象徴的に予表するものとなっています。聖書はその最初の頁から、何と、人の魂の救いについて語り始めており、そこを目的としている書なのです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「人間の創造において、女はどのように造られましたか?」答えは男のあばら骨から造られた、でした(2:21)。後に、神学者のアウグスティヌスは、女は、男の頭の骨でも、足の骨でもなく、あばら骨から造られたと語りました。男女に優劣はなしと言いたかったようですね。では、今日の聖書クイズを一つ、一般にエバが取ってアダムに与えた木の実はリンゴと考えている人は多いですが、聖書は何の木と語っているでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!