イザヤ書10章 神が高めもし、低くもされる
おはようございます。しばしば人は他人の能力を羨み、自分の無能ぶりを嘆くものです。しかし、たとえ優れた能力が認められることがあっても、それは、神のみこころがよしとしただけで、奢り高ぶる者は、早晩、その名誉を失うことになります。謙虚でありたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.主の怒り
初めの4節は、9章の続きとなり、イスラエル北王国に対する神の怒りを語っている。彼らの国は「不義の掟」を制定し、「不当な判決」を書いている。不思議なもので、いつの時代にあっても権力者の意のままに国が動かされ、正義も真実も全くないがしろにされることがある。まことに正しいことをなさる神を恐れず、奢り、弱い者、助けを必要とする者を踏みにじる国は禍なのだ。神はその怒りをぶつけられる(4節)。いかにして。5節からは、神の怒りの道具となったアッシリヤについて語る。
2.アッシリヤの奢り
ただし、アッシリヤは、神の裁きの鞭として用いられたにすぎず(5、6節)、アッシリヤもまた、自分の力で征服者となったと考え、まことに正しいことをなさる神を認めないのなら(7-11節)、神は同じようにアッシリヤをお裁きになる、と言う(12節)。カルノは、BC738年、カルケミシュはBC717年、ハマテはBC738年、アルパデはBC740年、サマリヤはBC721年、ダマスコはBC732年にそれぞれアッシリヤに攻められて、滅ぼされている。そのアッシリヤは、エルサレムも攻めてこれを陥落させ、エルサレムを守る方を、これまで陥落させた国々の偶像と同じように考え、自らを全能者のように考えるなら、それは間違いである。アッシリヤはただ、神の道具とされただけである(15節)神はそのアッシリヤの王の心の思い上がりと高ぶりを裁かれるだろう、と言う(18節)。
3.残りの者
20節以降は、アッシリヤによって滅ぼされたユダ南王国の復活について語る。歴史的に見るならば、実にこれこそ正しいことをなさる神がおられることを覚えざるを得ないところだろう。アッシリヤは確かに強かった。しかし神の道具に過ぎないアッシリヤは、その後滅亡して、この形を留めることはなかった。だが、ユダ南王国、つまりイスラエルは、復活再生し、現代においてもなお主の民として存続し、主の御名を証ししている。
アッシリヤに打たれたものの、そこには「残りの者」「逃れの者」がいて、再び、主の民の国を再生するのである(20節)。ここで注目すべきは「残りの者」が何であるか、ということなのだろう。ここで語られているのは、捕虜としてバビロンに連れ去られながらも、イザヤの預言を思い起こし、我に返って神の民として立ち返り、真実をもって主に頼る歩みを願い求め、エルサレム再建のために帰って来た者たち、というべきだろう(21、22節)。イザヤは繰り返す。アッシリヤの奢り(5-19節)、残りの者の救い(20-27節)、アッシリヤの進撃(28-32節)、主による救い(33-34節)。神が高めし、低めもする。人ではない。神が人も国も、時代も支配するのだ。低き心を持って神を恐れ歩むことが正しいことである。