40章 現代に語り掛ける慰め
おはようございます。40章以降から新しい区分が始まります。この部分についての評価は様々ですが、本ブログでは、イザヤの預言能力を認める立場で、イザヤの預言の継続として読んでいきます。そこに、私たちの時代につながる恵み溢れるメッセージがあります。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.40章以降の特色
1-39章までが、イザヤ書の前半で、その内36-39章は、それまで詩文形式で記された預言とは違って、散文形式となり、後半の40章以降をつなげる歴史的な背景を提供している。。イザヤはエルサレムで活動し、アッシリヤの脅威にさらされたイスラエルに神の守りのことばを伝えた。40章からは、また詩文形式の預言が始まり、66章まで続く。だがここでは、イザヤが生きた時代よりはるか未来の事が語られる。アッシリヤを滅ぼしたバビロンの滅亡を語っている。それで著者は、イザヤではないのではないか、とも推測されているが、このブログではイザヤの預言能力を認め、預言文書の継続として読む。
2.回復の預言
1節は、39章のバビロン捕囚の預言に続く、慰めのことばである。「優しく語りかけよ」は、直訳では「心に語りかけよ」である。イザヤは、バビロン捕囚の終わり、そして捕囚の民の回復と新しい出発を語っているが、同時に、終末的な真の回復について語りかけている。それは第一に苦役の終わりである。いつまでも神は怒ってはおられない。神は裁きの中に人を放置される方ではない。第二に、その咎が償われる(2節)。もちろん自分の罪は、自分で償うものだろう。しかし償い切れない咎を、神はその身に負ってくださるという。まさにイエスの十字架の償いを想起させる部分である。最後に、神は赦されるだけではない、祝福される。罪の歩みは罪の結果を引きずるが、神は、その連鎖を断ち切り新しい祝福を用意してくださる。二倍は、文字通りというよりも、十分な裁きに対して十分な祝福を用意される、ということだろう。そうであればこそ、人の人生には望みがある。
3節、「荒野で叫ぶ者の声がする」イザヤは、バビロン捕囚からの回復を念頭にし、このことばをペルシヤ人に向けて語った。後にマタイは、これをバプテスマのヨハネの出現と解釈している(マタイ3:3など)。つまりこの預言は、バビロン捕囚を超えて、現代にも通じる二重、三重的な預言となって、私たちの人生の回復についても語り掛けてくる。自分の人生にどんな回復があるだろうか、このまま坂を転げるように転落し、崩れて終わるのだ、と思っているような人もいるだろう。しかし、苦役を終わらせ、咎を償い、罪に代えて祝福を注がれる神がいる。この望みはあなたのものである。
3.神に目を向け信仰を抱け
このように語る神に目を向けよ。鋳物師や細工人が巧みに創作した作り物の像は神ではない(18節)。神は天地の創造主(12節)、知恵と英知に富んだお方である(14節)。神は比類ないお方である(26節)。呟くのを止めよ。落胆してはならない。疲れた者に力を与える神を仰げ(29節)。信仰を抱け。聖書が語る天地創造、万物の支配者である神を信じよう。