ヨブ記14章

14章 身代わりのキリスト

<要約>

おはようございます。キリストを信じてよかった、と思われるのは、キリストにある罪の赦しの故です。念仏による救いでもなく、功徳による救いでもない。ただキリストの十字架の業による救い、そこにまことの希望があると言えるでしょう。ハレルヤ!今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.はかなく、弱き人生にどんな意味があるのか

ヨブの答弁には内容がある。ただヨブは、自分の苦しさをわかってくれ、自分は正しいのだ、と友人とやりあっているのではない。実のところ聖書は、ヨブや友人たちの口を通して、人間の根源的な問題に迫っている。つまり、人間の存在とは何かである。人間はなぜこの世に生を受けなければならないかである。

人間は、神のように永遠に生きる者ではない。その命は短く、咲く花のようだ。しかもその人生は、不愉快なこと、解けぬことで満ちている(2節)。ところが神は、そんなちっぽけな人間に監視の目を光らせ、きちきちお裁きになろうとしている(3節)。そもそも人間が生まれながらにして罪人であり、その罪性から解放されることのない限界を持ち、(4,5節)、さらにはかない人生を生きなければならないとしたら、その人生は一体どういう意味があるというのか。ビジネスマンは、一日の仕事を終えたなら、会社の縛りから解放されて、自由な時間を楽しむことができる。人間も神の監視の目から解かれ、自由に生きる者とされないものか、という(6節)。

確かに、人間が四六時中神の目の監視下にあり、罪を犯すごとに、その報いを受けなければならない、というのは、どんなものだろう。クリスチャンは、まともにそのような人生を考えながら生きているのだろうか。「聖潔の人生」、とは言うが、人間は一生その罪の弱さから解放されるわけでもないのに、そのようなことを真面目に考えながら生きているのか。

木と人間では大違いだ(7節)。木なら切り倒されても、また翌年になればその根元から若枝が出てくることもあるだろう。たとえその切り株が、全く枯れ果て死んでしまったとしても、雨さえ降れば再び、命を吹き返すこともある。しかし人間はそうではない。死んでしまったら全てが終わりだ。11節は、イスラエル特有の石灰岩地の現象に人間の人生を重ねて語っている。石灰岩地は、二酸化炭素を含んだ雨水により、その主成分である炭酸カルシウムとの化学反応が起こり、地表の地形が浸食されやすい。鍾乳洞もその一つであるが、結果、洞窟やカルスト地下水系が発達するが、地表河川がない。雨が降っても、その水はいずこへと消え去ってしまうのである。人間の人生も同じようなものなら、この世でいい思いができなければ、何の意味もない(1コリント15:32)。よい思いができた人生はよし、そうでなければ最悪である。まさに人の人生とは何であろうか、である。

2.人間にセカンドチャンスはない

人間も木と同じように、再び生き返るのなら、物事はどんなに違うことだろうか(13節)。宝物を地に隠すように、一時の間、神が死者の国に、私を退かせるというのなら、文句を言いはしないだろう(13節)。そこでもう十分苦行を終えた、と神が思われる時まで置いてくださっていればいいのだから。でも人間にそのような希望はあるのか。死者の国の苦行であれば、交代が来るまで、耐え忍ぶだろう(14節)。そして神が私の名を呼ぶなら、喜んで「はいここにおります」と返事をし、あなたがお造りになった人間に命を吹き込んだ意義を認められるのだ(15節)。ヨブの神観に教えられるところである。ヨブは、神を愛として見ている。ヨブは、神について冷徹な裁判官のようなイメージを読者に与えながらも、実は腹の底で、神を愛として見ている。そして人間の罪人の癒し難い現実を理解し、そこに神の愛と情けがなければ、人間の一生は空しいのだ、という考え方に立っている。

だが現実は、その考え方を打ち砕くものである(16節)。神は、几帳面に私の罪を書き留め、その債務を最後の一銭まで厳しく取り立てようとされるのである(16節)。神よ、どうか、弱く、はかない一生を持った人間を、そのように見ないで欲しい。むしろ、そのような閻魔帳はゴミ袋にまとめて、片付けて欲しいものだ(17節)。

山が崩れ、その地形が様変わりするように(18節)、また水が全てを押し流すように、人の望みも失われる(19節)。神は愛だ、神は罪人の罪を赦してくださるとは聞くが、否、やはりそうでもない、結局自分のような人間は、神の愛と祝福を受けるにはほど遠い存在なんだ、と思わされてしまう現実がある。人間は神に責め立てられ、結局やつれ果て、その姿も様変わりし、ただ、痛みを抱えているだけ、ということがある(22節)。なんとも、人間の現実の深さに迫る独白である。

13節「よみ」と訳されたことばはシェオール。詩篇では、神とよみにはかかわりがない、という思想がある(6:5)。その「よみ」に、苦難の自分を、神が退かせてくださるように、そして、代わりの者、つまり苦難を代わりに背負ってくれる者が来るまで待ちましょう、とヨブは語る(15節)。ここでヨブは、意図せずに、キリストの救いの恵みについて語っていると言えるだろう。神と私たちの間のみで物事を考えていたらそこに救いも望みもないのである。神は愛だなどと語られても、その愛の神が審判の神として立たれたら、弱く罪深い私たちはもともこうもない。ヨブのように、ただひたすら後ろ向きになって、神の宣告に痛み苦しむ他はない。しかし、キリストの十字架の御業を神と私たちの間に置くなら希望がある。たとえ神が罪を数え上げ始めたとしても、そのリストを全て帳消しにしてくださるお方がいるからだ。それがキリストである。そこがキリストを信じる意義のあるところなのだ。キリストの御業をかかげ、キリストによって神に近づき、神に祝福をはばからず願う者であろう。

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