レビ記7章

皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日の7章では、再び代償のささげ物、交わりのいけにえが取り上げられます。先の箇所と比べながら、よく注意して読んでみてください。ここでは、先に語られなかったことの補足説明がなされているのです。一つ一つ今日的な意義のある内容として教えられてまいりましょう。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.代償のささげ物の補足(7:1-11)
 代償のささげ物、交わりのいけにえについては、すでにそれぞれ、4、5章でその献げ方が述べられている。ここでは同じことが繰り返されているようでありながら、いくつか新しく補足されている点がある。というのは、すでに4,5章において、罪のきよめのささげ物の血は、祭壇の角に塗られ、その土台に全部注がなくてはならないと説明されている(4:25、30、34、5:9)。しかし代償のささげ物については、その血をどうすべきかは語られなかった。ここでは、先に説明されなかったことを補足し、血は、「祭壇の回りに注ぎかけなければならない」(7:2)と指示されている。また、ささげ物の残りは、祭司が食べることができる、祭司のものになる、と追加説明がなされている。パウロは、この箇所を取り上げ、祭壇で仕える者は、ささげ物の一部を受けることができると指摘する(1コリント9:13)。つまり、主の働き人は、その働きによってふさわしい経済支援を得ることができる、としている。確かに祭司たちはこれによって生計を成り立たせ、彼らは自らの時間と労力をより、主の奉仕に費やすことができたのである。この原則は今日も同様である(1テモテ5:17-18)。
2.交わりのいけにえの補足(7:11-21,28-36)
 次に11節からは、交わりのいけにえの補足であるが、ここでは、そのいけにえについて三つの目的があることを説明する。それらは、感謝、請願、そして任意(自発)、つまり進んでささげるものである。「請願」を目的とするのは、苦難の中にあってなされた誓いを完成させるためにささげられるもので、「任意」は、いつでも願いや祈りと共にささげられるものである。そういう意味で、今日においても、自分が毎週神にささげるものが、感謝、請願、任意のどの目的でなされているのか、を覚えながらささげることは重要である。やはり信仰は心遣いであって、毎週日曜日に、おもむろに財布からお金を取り出して、献金袋に入れるのではなく、パウロが教えるように週毎に準備して捧げることはもちろんのこと、備えたものを、感謝としてささげるのか、請願としてささげるのか、あるいは任意の進んでささげるささげ物とするのか、細やかな意識と自覚をもってささげることが、主を喜ばせる行為になる。
なお感謝を目的とする場合は、ささげた日のうちに食べなければならないが(15節)、誓願または任意を目的とするならば、翌日に食べてもよいとされる(16節)。また食べ残された分は焼かなければならないという。これは、物惜しみせず、人々をもてなすように勧めるためであったとされる。感謝の深さからこれらが行われるとすれば、理に適った定めである。
代償のささげ物に続いて交わりのいけにえが語られる順序に注目したい。代償のささげ物は、私たちが引き起こした複数の罪について、その償いをするものであって、そこには明らかに十字架によるキリストの贖罪が予表されている。一方交わりのいけにえは、キリストにおいてなされた完全な贖罪から生じた神との交わりの回復について象徴するものである。つまり神は代償のささげ物によってまず宥められ、人と和解し、そこに神との平和が実現する。その上で、人は感謝と喜び、そして誓願を表す交わりのいけにえを持ってくることになるのだ。
神がどんな方であるかを覚えるならば、罪の自覚も深く生じる。罪を覚えるならば、キリストの赦しを求める以外に、神と和解する方法もないことがわかるだろう。そして、代償のささげ物(キリスト)に続いて交わりのいけにえ(感謝、誓願)をささげる気持ちにもさせられる。感謝、誓願に乏しいのは、キリストにある罪の赦しの深さを味わっていないためでもある。「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)とイエスは語った。罪の赦しと感謝は連続しているものなのである。
3.血と脂肪の禁止(7:22-27)
脂肪と血は、決して食してはいけなかった。ことに血はいのちの中心であった(17:11)し、いのちは神の特有の持ち物であり、授かり物であるので、神のみにお返ししなければならないものである。もちろんここには神学的意味合いのみならず、衛生的な意味合いもあったと考えられる。血は、病をも運ぶからである。これは今日のコーシャ規定(ユダヤ教の掟に従って料理された)に通じるものである。
4.まとめ(7:37,38)
これらの儀式は、AD70年に、ローマ帝国によってエルサレムの神殿が破壊されるまで続いた。それ以降、いけにえをささげる諸規則は機能しなくなったのであるが、それら諸規則の意義は変わることはない。神は聖であり義なるお方であり、決して罪に対していい加減な態度をおとりになる方ではない。神は罪を憎んでも、罪人を憎まないお方であるので、神は交わりを回復する手段として罪を取り除く贖いの業を求められる。そのために、神は、もはや繰り返しささげられる五つのささげ物ではなく、ただ一度限りのイエス・キリストの十字架による罪の赦しを計画されたのである。しかも、旧約時代においては、赦される種類の罪は、誤ってなされたものであり、故意的な罪に対しては寛容ではなかった。けれども、イエスの十字架にある罪の赦しに対する唯一の制限は、「聖霊に対する冒涜」つまりキリストの十字架の赦しを促す聖霊の働きを拒むことに対するものである。ある意味で、聖霊を拒まない限り、神の前に赦されない罪はもはやない、と考えてよい。

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