申命記21章 神に与えられた地を汚さない
皆さんおはようございます。今日はいくつかの種々の教えが述べられています。その基調に、人間として主の目に適うことを行うべきことが語られていることに注意すべきでしょう。信仰を持つということは、何が人間として相応しいことなのか、何が人間としてなすべきことなのかを、聖書の価値に照らして考え抜いていくこと、生き方そのものに通じるのです。単なる信心を超えて、生き方を考える者でありたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
14)種々の定め
(1)下手人不明の殺人事件の解決(21:1-9)
まず犯人不明の殺人事件が起こり、死体が見つかった場合、民の代表である長老とさばきつかさたちが、贖いの責任を負うべき町を決定する。それは刺し殺された者が見つかった現場より最も近い町である。その町の長老たちは、まだ労働作業に使われたことのない雌の子牛を、これまた、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その子牛の首を折る。それは、裁判官として、その町の罪が殺された者とは無関係であり、血を流した責任がないことを宣言するためである。ここには犯罪捜査という考え方はない。あるのは、最も近い町に共同責任を負わせ、その罪を、雌の子牛を不明の殺害者の身代わりとして赦し、事件を解決してしまう考え方である。しかしそれによって、事件に近隣の者は無関心ではいられず皆が責任を感じること、そしてある個人に冤罪を帰せて終わらせることも、事件を巡る町通しの争いが引きおこることも避けられるのである。大切なのは、わからぬものをわからぬままに受け止め、神の裁きに委ねることであろう。主が正しいと見られることを行なう、というのは、わからぬところをごり押しして人間的に白黒をはっきりさせることとは違うのである。人間を尊重するということは、しばしば曖昧さの中に維持されることもある。
(2)捕虜の女性を妻にする場合の定め(10-14)
捕虜とされた者の内、姿の美しい女性に目が留り、心引かれ、妻にしたいと思うなら、それが認められた。イスラエルの民は、カナン人の女性と結婚することは許されなかったので(申命7:1-4)、この女性は、他国から連れて来られたカナン人以外の捕虜なのだろう。妻になることを求められた女性は、自分の父母のために1ヶ月間喪に服して後、妻となることができた。彼女は、明らかに身寄りを亡くしている。そのような女性であれば結婚による保護の対象になるのだろうが、聖書が配慮しているのは、新しい生活環境の中に入ろうとしているこの女性に調整期間を与えるべきだという点である。聖書は、女性の人格を重んじ、思いやりのある対応を語っている。たとえ捕虜であっても、女性も人間として大事にされるべきことが語られるのである。
だから、その後、その女性を好まなくなったなら、自由の身にしなさいと勧められる。直訳は「彼女の願い通りに、彼女を送り出しなさい」となる。当時の女性が置かれた弱い立場を思えば、聖書は時代の制約の中で、神の愛の配慮を示している。関係が解消されても、その女性が不適当な扱いを受けてはならず、またその社会的地位は損なわれてはならなかったのである。ちょうどパウロが、奴隷制を当たり前とする時代背景の中で、それを変えようとはせずに、奴隷の最善の扱いについて語ったように、やはり、この箇所も当時、女性が戦利品、略奪品として扱われた時代を背景とし、その中で、さらにその弱い立場を利用しない、女性に対する最善の配慮を語っている。
(3)2人の妻の男の子の相続権問題(15-17)
ある男に2人の妻がいて、一方は愛され、他方は嫌われ、それぞれに男の子が生まれた場合、長男が嫌われている妻の子であっても、長子としての権利を奪ってはならないとされる。これも、強調は、正当な相続権が保護されることにある。一夫多妻制があるところではどこでも偏愛の危険があった。しかし、長男は誰から生まれても長男であり、長男の権利は神様が与えられるもので、人間の好き・嫌いの感情で左右されるものではない。先に生まれることは、神様の計画であって、人が犯してはならないものである。ヤコブは、この相続権を破る問題を起こしている。なすべき正しいことができない人間であればこそ、こういう戒めが必要とされたのだろう。
(4)親の言うことを聞かない息子のさばき(18-21)
両親に反抗的で逆らい通す息子は、石打の刑に処せられる。それは両親にとって不名誉であるばかりか、村の恥であり、他の若い者たちにとっても悪い模範となるためで、取り除かなければならない悪である。なんと厳しいことか。両親を敬うという十戒の教えは、単なる空念仏ではなく、人情を超えた具体的な死刑と言う罰も視野に入れているのである。しかしこれも、仮定として、極端な形で述べられている逆説的な定めの一つなのだろう。実際に旧約聖書には、この刑を実行した例は記されていない。つまり強調は、18節「懲らしめられても、従わないときは」とある点で、まず親が、その強情で逆らう子に、自ら向かい合って、養い育てる意味での愛情を注ぐ努力をすることが求められていることである。だから、イエスは、この精神の大切さを誤解なきように伝えるために、放蕩息子の物語を提示した(ルカ15章)。親に反抗する子供は、石打にして、殺されるべき者である。しかし、殺したり、切り捨てたりするのではなく、そのような子を愛し、養い育てることが求められている。子育てはしばしば面倒であり、投げ出したくなることもあるかもしれない。しかし、ここでの誇張法が本質的に語っていることは、親が人間としてなすべき正しいことは、神の愛に立たせていただくこと、成長させていただくことである。
(5)死刑に処した者を木につるした場合の定め(22-23)
木につるされた者は、神にのろわれた者なので、翌日までつるしておいて相続地を汚してはならないとされる。後にパウロは、これをキリストの十字架の意味を説明するために引用している(ガラテヤ3:13)。キリストは神に呪われた者、裁きを引き受けた者とされた。イエスが身代わりとなったのだから、もはや私たちは神の呪いを恐れる必要はない。ただこれはパウロの霊感による解釈と引用であり、ここでの文脈は、神が私たちに与えられるものを聖く、大事にするように、と教えられている。
以上種々の規定は、生活に直接つながっている。しかし、その一つ一つの中には、神を信じる者の持つ「物の考え方」「生き方」が述べられている。信仰というのは、何よりも考え方であり、生き方なのである。