詩篇124篇

124篇 主の御業を想起せよ

おはようございます。今日の詩篇は、もし、神がおられなかったら、と自分の過去を振り返る時を与えてくれます。あれもこれも神のなさるわざ、神の恵みがあればこそ、ここまで来ることができた、というものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

「もしも主が私たちの味方でなかったなら」人生にif(イフ:もし)はないのだ、と言われる。しかし、その「もし」をつかって、詩人は、神の守りがあった、救いがあったと語る。ダビデの初期の作、特にサウル王を殺めたペリシテ人から来た危機を背景としているとされる(2サムエル5:17以下)。

その時の危機的状況が四つの比喩で語られる。たとえば、人々が逆らって立ち上がった時に、私たちは生きたままのみこまれたであろう(2,3節)、とされる。この言い方は、例えば箴言では、罪人が罪のない者を食い物にしようとする様を描いて用いられる。その危機的状況は、死の世界に引きずり込まれることに等しいものであった(箴言1:12)。しかしそこから救われた、というのが大事な点である。

次に、彼らの怒りが燃え上がった時、大水に押し流され、流れは越えていった、という(3、4、5節)。大水の濁流も、詩篇に繰り返し出て来る比喩である(32:6、69:12、93:3、4)。いずれも絶望的で救いようのない状況、敵対する者の圧倒的な力強さを象徴している。ことに詩篇69篇では、バビロン捕囚を連想させ、時代のうねりの中で、手も足も出ない苦しさを語る象徴として用いられている。93篇も、大河を持つバビロンに捕虜として連れ去られ、失われようとしたイスラエルの危機を語っている。しかし神は、そのような状況から、水が破れ出るようにペリシテ人たちを打ち破り、ダビデを救い出された(2サムエル5:20)。

そして三つめに、6節「歯のえじき」。この比喩も良く使われる。たとえば、詩篇22:13-20、メシヤ詩篇ともされるこの詩篇では、窮地に立たされた詩人の状況が、また、79:7は、バビロンに滅ぼされ廃墟と化したエルサレムの状況が、語られている。いずれも「歯のえじき」になる所を助け出されたのである。最後に7節、「仕掛けられた罠」91:3 にも同様の表現が出てくるが、そこでは、出エジプトを導かれた神の業が想起される。

2.神の誠実さに燃やされていく

確かに、もし、主がイスラエルに敵対していたとしたら、イスラエルは根絶やしにされ、もはやこの地上には存在しない民族になっていたのかもしれない(4,5節)。しかし、神はアブラハムに対する契約を忘れることはなく、イスラエルの民を救われた(6,7節)。それは、偶然の救出ではなく、誠実な神による救出であった。目に見えない天地を造られた神の助けに、私たちは大いに期待を寄せることができる。

最後に1節、「さあ、イスラエルは言え」という会衆に対する呼びかけに注目しておこう。礼拝の交唱を思わせるこの一文は、まさに礼拝が、共に神を認め、共に神の御業に期待する時であることを教えられる。礼拝は、信仰を持ってささげられなくてはならない。一連の儀式をこなしているものではない。共に、天の神に注目し、その神がなさった御業を想起し、神に対する全き信仰を燃やしていく時である。単純な比喩であるが、その比喩に彼らはあれこれ連想し、神はあの時も私たちを救ってくださった、この時もそうだった、と、一つ一つ神の救いを確かめ、神の守りと救いに対する確信を高めていったのである。同じように、私たちも礼拝の中で自らの歴史に主がなしてくださった偉大な救いの業を想起し、主の介入を覚え、いよいよ主の確かさを覚えていく時を持つのだ。真の神の民として、信仰の経験を回想し、主を中心に皆の心を一つにし、いよいよ燃やされるところに、礼拝の祝福もある。

 

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