2篇 主の王権
<要約>
おはようございます。2篇は、1篇の続きであることは明らかで、主に身を避ける、つまり主の主権を認めることの幸いが語られています。そして、これはメシヤ詩篇とも呼ばれ、イエスを頭に入れながら読んでいく時に、はっきりとその意味を理解できるものでもあります。主イエスに身を避けることの幸いを覚えたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.2篇の背景
この詩篇はダビデまたはソロモンの時代の史実に基づいて作られた。つまり、ダビデであれば2サムエル記5:17もしくは、10:6以下、ソロモンであれば、2サムエル記7:12以下、Ⅰ列王1:45、Ⅰ歴代28-29章に記されている事件に基づいているとされる。いずれにしても、彼らがイスラエルの王に即位した際に、その王権が認められず武力蜂起が起こった事件を背景としている。語られていることは、神が立てられた王に対する反逆は、単なる主権争いではなく、神に対する反逆だ、ということである。なお詩編83篇にも同様のものがある(83:5-8)。
そしてこの詩篇は、単に史実に基づいて詠まれたのみならず、メシヤの誕生の性質について預言するメシヤ詩篇になっている、とも言われる。実際、イエスの弟子ペテロとヨハネは、イエスの証人となったことで、大祭司たちに捕らえられ裁判にかけられるのであるが、釈放された後で仲間たちの所へ戻り、その出来事を報告する中で、この言葉を引用し、イエスが油注がれた者であること、つまりその王権を認めるように語り、共に聖霊に満たされる経験をしている(使徒4:25-29)。またルカも、イエスの受洗の記事に関連して引用し(ルカ3:22)、さらにパウロや(使徒13:33)、使徒ヨハネも(黙示録19:15)これを引用し、イエスを証している。そのような意味では、この詩篇は、史実性に基づきながらも、その完全な意味を理解するためには、メシヤ預言として受け止めるのがよいのだろう。
2.神の立てられた権威
1節、冒頭から、神が立てられた支配者を無分別に拒否することへの驚きが語られる。「わたしが、わたしの王を立てたのだ」と主の定めが語られる。だが、その定めは、ダビデはソロモン時代以上のことを語っている、と思われるのが7節以降になる。「地の果ての果てまで」という王権はイスラエルには実現したことはなかった。それはやはり、メシヤ、イエスによる世界的王権と理解すべきことなのだろう。
実際、ユダヤ人たちはイエスの王権を認めず、彼を十字架に葬り去ろうとしたが、復活後イエスは、地の果て果てに至るご自身の王権を主張された(マタイ28:18)。そしてその王権を教会が認めた時に、それは彼らの宣教の原動力となった。キリスト教は、エルサレムの片隅から始まり、地中海世界に広がり、中世ヨーロッパ時代には、ヨーロッパ奥地に広まり、大航海時代の新大陸発見後は、アメリカ大陸に受け入れられ、さらに近代以降、それは、アジア・アフリカ諸国に伝えられ、今日メガチャーチと呼ばれる大教会は、アジアに集中している、とも言われる。文字通りそれは、全世界に伝えられている。
そのような意味でこの箇所は、今もなお、キリストの全世界に対する支配について語り掛けていると言えるだろう。神の定めは、決して変わることはなく、イエスは全世界の王であり、地の果て果てにまでその主権は及ぶ。イエスが神に遣わされた救い主であることを認め、イエスに近づき、罪を告白し、イエスの救いにあずかろうとする者は少ない。しかし、神がイエスが救い主であると同時に、主権者として立てられたとするならば、イエスを認めない者に対する神の怒りは明らかである(5、12節)。だから、神に対する反逆を捨て、目に見えない神を畏れ、神に心を開き、イエスの十字架のもとに罪を悔改め、遜って、神に身を避けるべきだとなる(11節)。
3.幸いな者になる
私たちは、自分たちの死についてはあまり考えたがらない。それは死後神の前に立ち、自身の人生を精算しなければならないかもしれない、と思う潜在的な恐怖のためかもしれない。しかしそれは、「かもしれない」出来事ではない。あらかじめ聖書は、人間が永遠に生きる者であり、やがて神の前に立ちその行いに応じて裁きを受けることを語っている。私たちは、何一つ天に持って行くことはできない。お金も、家も、妻も子どもも、そして自分の体も置いていく。しかし、行いはついていくのである。
だから、その時に向かって、今の人生を賢く生きるように諭している。自分に罪があると思う者は、それを曖昧にせず、正しいことをなさる神を認めて悔い改め、神に立ち返ることを勧めてる。また、今すでに自分の人生に希望を失っている者には、神が遣わされる救い主イエスがおられることを覚えるように諭している。この世の権力下で、どうにもならない思いになっている者に対して、もう終わりだと諦めるのではなく、真の主権者を見上げるように諭している。神の主権による配慮、導き、回復に信仰をもって、御子に近づかなくてはならない。
幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。この締めくくりは、2編が1篇の続きであることを思わされる。主の誤りなきみ教えを喜びとし、主の主権を認める歩みに、幸いな人生がある。主に希望を持って歩ませていただこう。