92篇 至高なる神を仰ぐ
おはようございます。安息日のための歌、この歌を繰り返し読みながら、神の前にいかに礼拝をささげていたかを思わされるところです。至高なる神を仰ぐ、被造物に与えられた豊かな恵みの時を楽しむ信仰者でありたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
「安息日のための歌」とある。一説に、創造第七日目の朝アダムが作ったもの、あるいは、朝の最初の常供の全焼のささげものを献げる際に、レビ人によって詠まれたもの、とされている。実際のところ作者は、不明であるが、表題からして、詩人が安息日をどのように受け止め、これを過ごそうとしたのか、それによって自らの安息の在り方を振り返らされる詩である。
詩全体が以下のような交差配列的な構造になっている。
1-3節と12-15節⇒主への感謝と賛美
4-5節と10-11節⇒主の御業への回想
6-7節と9節⇒不法を行う者への神の裁き
そしてこのような交差配列的な構造の中軸となる8節は、神の至高性を語り、それが詩人の最も語りたいところとなっている。つまり結論的に言えば、詩人は、安息に礼拝をし、神に感謝と賛美を献げ、主の素晴らしき御業を回想し、神の至高性を味わっているのである。実に、礼拝が天地の創造主、造り主を認め、その神の前にひれ伏すことを原義とするとは、こういうことであろう。
2.主への感謝と賛美
1節「主に感謝することは、良いことです」新共同訳では、「いかに楽しいことでしょう」となっている。「良い」、あるいは「楽しい」と訳されたヘブル語は、トーブ。倫理的な意味でよい、というのではないので「楽しい」という訳もありうる。しかし、「楽しい」には、別の含みもある。ここでのトーブは、目的にかなう、状況に適切であることを意味する。つまり、創世記1章で、神が天地を造られた際に、一つ一つ「神はそれ見て良しとされた」とあるが、その「良し」と同じ使い方である。つまり、安息日において、主に感謝するのは、人間にとって自然で、相応しい行為である、ということだろう。
そのような意味で大切なのは、「朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を告げることは。」という安息日の過ごし方である。朝のスタートに、まず神の恵みを思う。恵みと訳されたヘブル語は、ヘセド。日本語の恵みは、与えられるはずのない神の祝福を思わせるものであるが、ヘブル語のそれは、神がどこまでも契約を守ろうとする意思、誠実な愛に強調点がある。安息日の朝、まず神が、自分を愛してくださる方であることを思う。そして、夜には、真実を告げる。真実と訳されたヘブル語は、エムナー、アーメンと語根を同じくする語である。どうだろう。朝の礼拝において、神の愛、その誠実な愛を思い巡らす、そして、夜、確かにあなたはその通りのお方です、アーメンと告白する。神と一日よき時を過ごす、それだけの余裕を持って人生を歩んだら、と思うところである。しかし、私たちの心の現実は、そのように過ごすべき安息日であるのに、アモスが語るように「安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが」(アモス8:5)と、神よりも世俗の事柄に急いでいることがあるのではないか。「無思慮な者」「愚か者」「不法を行う者」というのは、まさにこの私のことではないか、と罪深き身を思うところである。「正しい者は、なつめやしの木のように萌え出で、レバノンの杉のように育ちます」(12節)。「彼らは年老いてもなお、実を実らせ青々と生い茂ります」(14節)神の至高性を認め、神に礼拝をささげる者の祝福は誰の目にも明らかである。礼拝する民として成熟させていただきたいものである。