39章 ゴグへのさばき(38:17-39:20)
おはようございます。39章は、38章と共に、終末的に理解される部分です。しかし、当時の読者にも今の私たちにも意味のあるメッセージがそこにあります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.イスラエルの大勝をどう考えるか
39章は、38章の繰り返しであり、詳述です。神はゴグの軍隊を武装解除し、討ち滅ぼされます。その武装解除に7年(9節)、死体を葬り去るのに7ヶ月(12節)かかったというのは、ゴグの軍隊が非常に強大で圧倒的な力を持っていることを意味しています。それは大変な犠牲者を出す戦いでしたが、完全な主の勝利となるものでした。
ところで38、39章の位置づけについては、写本に基づく複雑な議論があります。聖書は、著者が書いたオリジナルは残っておらず、書き写されたたくさんの写本によって伝えられてきました。そしてそれらを突き合わせた復元作業によって今の聖書ができているわけです。その写本のあるものは、この38、39章を36章と37章の間に挿入しているものがあるのです。歴史家のヨセフォスも、このような順で読み、39章の前半はエゼキエルの裁きのメッセージの最後となり、後半は、37章に続く回復と希望のメッセージの始まりであると考えています。
確かにそのように読めなくもないことでしょう。しかし、問題なのは、イスラエルがこのゴグに対する戦いにおいて勝利している点です。イスラエルは、バビロンの攻撃に大敗し、捕囚となる、というのがこれまでの預言の流れでした。となれば、さらに別の戦い、今度はイスラエルが大勝する戦いが預言されていることになります。
そこで、やはり歴史的現実に照らしてではなく、終末的観点からこれを解釈するのがよい、ことになるわけです。それは回復された後の霊的なイスラエルを襲う悪魔的な力に対する勝利を語っている、と。実際ヨハネは新約聖書の黙示録の中でこの箇所を引用し(黙示録20:7-10)、世界最終戦争における勝利を語っていますので、それがクリスチャンの解釈となります。ただそれは、現代のクリスチャンにとっては確かに意味のある読み方ではあっても、当時のユダヤ人には意味をなさないことでしょう。やはりエゼキエルは、当時の時代の人々に向かって語ったはずです。では、どんな意図がそこにあったのでしょうか?2.ゴグ・マゴグの現代へのメッセージ
まず、当時のイスラエルはバビロンに滅ぼされ、イスラエルの神は無力である、弱虫であると見なされていた現実を覚える必要があります。かつて日本が敗戦し、神と崇められた天皇が、マッカーサーと並んで写真を撮られ、現人神あらず、人間であると宣言されたように、イスラエルの神も神なんかではないのだ、と周辺の国々から嘲笑された現実がありました。そのような状況の中で、エゼキエルは、それに断じて否を唱えるわけです。イスラエルの敗戦と捕囚は、神の弱さを示すのではなく、義なる神の裁きである、と(24節)。だから神は、これを嘲笑した者に復讐もし(25-32章)、かつ、裁きによって滅亡したイスラエルを回復させることもできる、と(27,28節)。
ところが、既に述べたようにイスラエルの再建には、70年以上の時間がかかるのです。つまり「回復を約束されることと、約束された回復を現実のものにすることは別物」中々好転しない事態に、心悩ます人々には励ましが必要でした。神の助けが遅れている、これは新たな戦いだと感じられる状況について、神は必ず勝利をもたらす、と語っているのです。そのような観点から改めて黙示録を読めば、ゴグを引用するヨハネも、ただ終末的な意味でそれを語っているよりも、迫害下にある当時のキリスト者に対する慰めと励ましを語ろうとしたと理解することができますし、黙示録は、本来はそう読まれたものなのだ、理解することもできます。主は、確かにおられることを人々に明らかにされるのです。