エレミヤ書20章 主に向かって歌え
おはようございます。エレミヤ書は、必ずしも時間順に書かれたものではなく、預言が前後しているところがあります。既にエレミヤは初老期に入りつつあったとも思われ、同じ言葉を語りつつも、その深さは違うものがあったことでしょう。しかし信仰は変わらずです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.バビロン捕囚の宣告
1節、イメルの子パシュフルは、祭司であり、主の宮のつかさであり、監督者であった。つまり、祭司であると同時に、神殿の管理者であり、警備長官でもあった。彼には、律法に反することを教え、神を冒涜する行為を見つけ次第、それを取り締まる責任があった。そこでパシュフルは、エレミヤが祭司を引き連れ、ヒノムの谷で陶器のビンを壊しエルサレム滅亡を預言したことを遺憾とし(19章)、エレミヤを捕らえて鞭打ちを加え、足かせをはめたのである。パシュフルは、一日の拘留でエレミヤを釈放した。エレミヤは彼に「恐怖が取り囲んでいる」と神の言葉を伝える(3節)。小人ほど権威を振りかざすものだ。神は、エレミヤに随分痛いところを突かせたものである。これまで「北からの敵」と具体名が明かされないできた国の名が、初めて具体化されバビロンとなり(4節)、パシュフルを含めたバビロン捕囚が宣告される(5節)。
ゼデキヤの時代、祭司はゼパニヤに代わっていることから(29:26)、パシュフルは、エホヤキム王の時代に捕囚民の一人としてバビロンに移されたのだろう。パシュフルは、飢餓や剣が決してユダには臨まない、と偽りの預言をした者の一人であった(14:14以下)それが今罰せられる。
2.エレミヤの戦い
7節以降は、詩文形式となっている。エレミヤは心かき乱されていた。焦燥感漂う祈りが書き連ねられている(7-12節)。このような心情の吐露は、これで3回目となる。時間順に並べれば、18:18-23と本章の20:7-18がエホヤキム王の治世の初め、そして15:10-21がエホヤキム王の治世の終わりになる。つまり、エレミヤの預言は一向に実現する気配もなく、エレミヤは語れば語るほどに物笑いの種となり、神もエレミヤに対して無言に等しき期間があったということだ。確信をもって、主の御言葉を伝えても人々はそれを認めない。むしろ、どこまでこいつは頑張れるのかと好奇の目に晒されていく。そしてパシュフルに向けた「恐怖が取り囲んでいる」という言葉は、逆にエレミヤを揶揄するあだ名とされていた(10節)。そこで自らの一生が苦難と恥で終わると思えば暗たんたる気持ちにならざるを得ない。
おそらくこの時エレミヤは初老期に入っていたであろうと考えられているが、その心は神の召し(1:7-8)になおも忠実であり、神の約束に対する信仰を捨てていない(13節)。もちろん、肉の心は複雑である。感謝と落胆が入り混じる心をどう考えるか。13節の主語は、ヘブル語では3人称男性複数である。つまり「彼らは」主に向かって歌い、主をほめたたえよ、なのであり、彼らは「正しい者」を指す。悩みを小脇に抱えながらも、神のみことばをまこととして生きた聖徒たちの群れに加わる歩みがある。