エレミヤ書21章 神の哀れみに心を開く
おはようございます。21-25章までが、ゼデキヤ王時代の預言集となります。ゼデキヤ王は、かつてヒゼキヤ王時代に起こった神の奇跡的な介入を求めます。しかし求められるべきことは「神の加勢」ではなく「神との和解」でした。神との正しい関係がすべてなのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ゼデキヤ王に言え
21章より、ゼデキヤ王時代の預言となる。おおよそBC589~586年、そのいつ頃かはわからないが、エルサレムは、バビロンの王ネブカデネザルの軍隊に包囲され国家存亡の危機に立たされていた。エレミヤのことばに耳を傾けることを拒み、平安を約束する偽預言者に頼り続けてきたゼデキヤ王であったが、いよいよ真実が何であるかを知り、真実を語るエレミヤの所に戻って来たのである。が、神のことばは厳しい。
エレミヤは三つのメッセージを伝えている。第一にゼデキヤ王に対するメッセージ(1-7節)。ゼデキヤ王は、パシュフルを派遣して、エレミヤのとりなしを求めた。先の祭司パシュフルとは別人である。彼は宮廷の高官であった。ゼデキヤ王は、100年も前に神が奇跡的にアッシリヤの包囲からユダを救い出された出来事を思い起こしている(2列王19:2)。エレミヤにも同じことができると期待したのだろう(2節)。しかし神はゼデキヤの期待を打ち消した。ユダは神の剣と疫病によって容赦なく滅ぼされる、と。神のあわれみはない、と(5節)。ゼデキヤはバビロンの王ではなく神を敵にしていたのである。求めるべきは、神の加勢ではなく、神との和解であった。神に助けてもらう前に悔い改めることであった。
2.エルサレムの民に言え
第二のメッセージは、エルサレムの民に向けられた(8-10節)。神がイスラエルを滅ぼす決意は変わらない。しかし民が自分の未来について選択できるチャンスを与えられた(8節)。バビロンの猛攻のもと、抵抗するのではなく投降することでいのちを得るという。なぜなら、この災いは神から出たものであり神の裁きであるから、神の前に遜るなら、神はそれを悔い改めとみなされる、ということだろう。大切なのは神の正しさを認め、神に自分自身を明け渡すことである。それがたとい不本意と思われることがあっても、神はご自分を認め委ねる者にあわれみ深い。神のあわれみを信じて、機会を捉えることである。
3.ユダの王家に言え
最後のメッセージは、ユダの王家に対するものである(11-14節)。王たる者の責任は、申命記17:14-20に明確に教えられている。馬を増やさない、多くの妻を持たない、金銀を過剰に持たない、そして一生の間主のみ教えの書を手元に置いて読むことである。それは同胞の上に高ぶらないため、そして、王家が長く王国を治めるためであった。公正な裁きを欠くことは高ぶりそのものであり、それは、主のみ教えの書を手元に置いて読むことなき生活の故である。指導者の責任は日々聖書に向かうことにある。そしてさらに言えば、神に与えられた責任のために聖書を読むことではなく、聖書を日々愛読する積み重ねの上に、良き働きが生み出されることを味わうことだろう。神に心を向けた一日一日を過ごすことである。